2008年 03月 08日 ( 1 )

論理トレーニング応用1 内田樹さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」の論理的考察1

論理トレーニングのとりあえずの基礎的訓練が一通り終わったので、ここでその応用を考えてみたいと思う。本来の目的は、『バックラッシュ』(双風社)という本の斎藤環論文「バックラッシュの精神分析」に感じた違和感が、果たして論理的なものが原因で起こるのか、それとも僕が共感している内田樹さんを批判していることから起こってくる感情的なものかを考えるのに論理トレーニングを応用しようというものだった。

斉藤さんの論文は、専門の精神分析の部分は難しくて知らないこともあるので、その論理構造だけを取り出すのはなかなか苦労する。そこで、部分的に気になるところに注目して考えてみようと思う。まずは次の引用部分に関して考察してみよう。


「内田樹は、「私がフェミニズムを嫌いな訳」なる一文で、自らの旗幟を鮮明にしている。一読すれば分かるとおり、この一文において内田が批判するのは、正確にはフェミニズムでもマルクス主義者でもない。要は、自らの主張の正しさに対して一切の懐疑を持たない「正しい人」が批判されているのだ。しかし、そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない。
 内田がほぼ田嶋陽子ひとりをフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩きに対しては、今さら無知とか下品とかいっても始まらない。これほどあからさまな「為にする議論」を、今なお自らの公式ウェブサイトで公開し続けるという身振りは、議論や対話を最初から放棄するためになされているとしか思われない。それでなくとも内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している。
 しかしこれは、フェミニズム嫌いという「症状」を偽装することで、そこに何か本質的なものがあると錯覚させるためのパフォーマンスではないのか。かりそめの自己を無邪気に演じつつ、その内側に秘めた「本当の自己」が空っぽである場合に、しばしば採用されるテクニックである。もっとも、主体を空虚にして身体の知に従うべきことを主張する武道家・内田にとって,こうした「主体の空虚さ」を指摘されることは、むしろ喜ばしいことであるに違いない。」


さて、ここで斉藤さんが語っていることの「主題」「問題」「主張」を分析してみようと思う。全体の論理の流れとしては、まずは内田さんの「フェミニズム批判」が,実はフェミニズムそのものの欠点を指摘したものではないので、批判と呼べるものではないという主張が見られる。そして、それが反論に答えることのないものとなっているので、言いっぱなしであり「為にする議論」になっていると逆に批判されている。そして最後に、このような行為は、実は空っぽの中身を隠すためのパフォーマンスに過ぎないのではないかと結論づけられている。以上をまとめると、

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by ksyuumei | 2008-03-08 15:32 | 論理