2007年 10月 24日 ( 1 )

「存在」という属性

野矢茂樹さんは直接書いていないのだが、「存在」という属性をどう捉えるかというのを、単純なものと複合的なものという発想からの応用問題として考えてみようと思う。野矢さんの解説によれば、ウィトゲンシュタインが真に存在するとして考えたのは、指し示すことが出来る単純性を持った「対象」に当たるものだけだったように思われる。この真に存在するものが示す事実から切り出されるものが「対象」であり、それを表現する言語が「名」と呼ばれた。

「名」は対象の像として存在するので、それが「名」として存在するためには、本体である「対象」の存在を必要とする。この「対象」の存在は、「名」の前提となるもので、存在そのものを何らかの方法で証明したりすることが出来ない。存在そのものに関しては、ウィトゲンシュタイン的な表現を使えば「語りえぬもの」ということになるのではないだろうか。野矢さんの表現を借りれば、それは「示されるもの」と捉えなければならないのではないかと思う。

存在が証明されないものであるなら、それは経験的なものではなくなる。つまり経験を越えたものとして、ア・プリオリ(先験的)に所与のものとして我々の前に現れていると受け取らなければならない。このア・プリオリ性を直感的に納得するのはかなり難しいのではないかと思う。思い込んでいれば存在することになるのかという問題があるからだ。

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by ksyuumei | 2007-10-24 10:22 | 哲学一般