2007年 10月 08日 ( 2 )

論理の正しさはア・プリオリ(先験的)なものか?

僕は以前は、論理の正しさといえどもそれはやはり経験から得られるものだと思っていた。論理は、この世界の捉え方として、最高度の抽象ではあるが、それは現実を捉えたものであることは確かだから、論理は現実との一致を究極の目標として展開されるものだと思っていた。ヘーゲルが言うように、「理性的(論理的)なものは現実的であり、現実的なものは理性的(論理的)である」と思っていた。

現実と論理の一致は確認できるものであり、論理の正しさの源泉も現実の存在にあると思っていた。しかし、論理の正しさの確信は少しも揺らぐことがないものの、その正しさの根拠を現実に求めるという考察はなかなか説得力のあるものにならなかった。論理が現実と一致するから正しいというよりも、論理に従って考察したことが現実との一致を見て、その正しさを示すといったほうが感覚にぴったり来る。論理の正しさが現実によって証明されるというよりも、現実を捉えた認識の正しさが、論理に従うことによって示されるという感じだろうか。

論理の正しさは、考察に先立ってすでに前提されているという感じがする。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中で、論理を語りえぬものとしている。それはあることを考察する中で示されるものであり、その正しさは語りえぬものとしてア・プリオリに受け入れなければならないものと語っている。論理というのは、本当にそのようなものなのだろうか。

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by ksyuumei | 2007-10-08 23:04 | 論理

属性の帰属先としての存在

シカゴ・ブルースさんから送られてきた「0の概念・マイナスの概念」「概念は「言語」に先立つ(5)」というトラックバックを読み返すと、どうも議論がかみ合っていないなというのを感じる。おそらくシカゴ・ブルースさんも同じように感じているのではないかと思う。たぶん、どちらも自分が論じたい側面・あるいは視点というものが相手に伝わっていないのだろうと思う。

だから、これから述べることは、シカゴ・ブルースさんが語ることへの批判や反論ということではなく、僕がいったい何を論じたかったのかということを伝えるものにしたいと思う。シカゴ・ブルースさんが書いたエントリーについての理解と評価はすぐには出来そうにないので、まずは自分が語りたかったことをまとめてみて、その後でじっくりとシカゴ・ブルースさんの文章を読ませてもらいたいと思う。

だから、シカゴ・ブルースさんの文章への直接の言及をこのエントリーは含まないのだが、一連の流れの中にある一文ということでトラックバックを送らせてもらおうと思う。なお、僕が複数のブログで同じエントリーをアップしているのは、一つには記録のようなものという意識で行っているものだ。また、トラックバックをlivedoorのブログで送るのは、ここのブログでのみ、コメントやトラックバックを受け付けていることに理由がある。読みづらいという点については、改良できるところは努力していきたいと思う。

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by ksyuumei | 2007-10-08 13:05 | 論理