2007年 09月 18日 ( 1 )

慣性の「原理」

板倉聖宣さんは、『科学と科学教育の源流』(仮説社)という本の中で、<慣性の法則>ではなく<慣性の原理>という言葉を使っている。「慣性」と呼ばれるものが現実世界の法則性を認識したものであれば当然「法則」と呼ばれてしかるべきなのだが、なぜこれを「原理」と呼んでいるのだろうか。板倉さんの語るところを考えてみようと思う。まずはその部分を引用する。


「ガリレオの力学における最大の業績は何かというと、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>の確立ということが出来ます。彼が落下の法則や振り子の法則を発見しなくとも、ニュートンはその力学を完成させることが出来たでしょうが、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>なしには、ニュートン力学も何もあったものではありません。
 いま私は<慣性の原理>と書き、<慣性の法則>とは書きませんでした。どうして、「法則」ではなくて「原理」なのでしょうか。そもそも「原理」と「法則」とはどう違うのでしょうか。私はその違いを、次のように考えています。
 「法則」というのは、実験によってその真偽が決められるものだが、「原理」というのは個々の実験には関係なく「疑い得ない真理」とみなされるものだ、というのです。
 そのことは、「実験的に慣性の原理を証明することは極めて困難だ」ということを考えてみると了解していただけるでしょう。」


板倉さんが語ることを、そのまま素直に受け取ると、「法則」というのは実際の実験によって証明される真理であるが、「原理」のほうはその証明が極めて困難であって、「疑い得ない真理」とみなされるものだから真理なのだというふうに読める。これは、表面的に受け取ると、科学ではなく宗教的ドグマを語っているようにも聞こえる。板倉さんをはじめとする多くの科学者は、証明することが困難な「原理」をどうして真理だと認識できるのだろうか。

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by ksyuumei | 2007-09-18 10:03 | 科学