2007年 08月 25日 ( 1 )

本質論的段階は、何故に「本質」と呼ばれるのか

三段階論において現象論的段階で言われる「現象」や、実体論的段階で言われる「実体」というもののイメージは、多少の差異はあっても大筋では同じものであることが多いのではないだろうか。「現象」は、表に現れ・目に見えたそのままのものを記述すればいいのだという受け取り方が出来る。また、実体は現実の物質的存在を指すのだと理解できる。これは、理論の発展段階においては、仮説としてフィクショナルな実体という形を取ることもあるが、それを現実の物質的存在として扱うという点では、フィクショナルであっても同じである。

これに対し「本質」と呼ばれるものは、そのイメージがなかなか難しい。つかみ所がなく、人によってはそれを「本質」だと呼ぶことに異論が出てくる場合もあるのではないだろうか。「本質」というのは辞書的には、「物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿」というふうに説明されている。ある事柄を「本質」と呼ぶには、それが「根本的」なものであるという判断が伴うわけだ。それではその判断はどうやってなされるのか。

根本というのは、そのものが寄って立つ基盤であり根っこになっているものだ。それなしには、その事物は事物としての個性を失ってしまう。このような判断は、対象が何であっても簡単にはできないだろう。試みに、何かある対象を思い浮かべてその本質を考えてみても、なかなかぴったりする説明を見つけるのは難しいだろう。

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by ksyuumei | 2007-08-25 13:10 | 論理