2007年 08月 20日 ( 1 )

現象論的段階の徹底とその克服

板倉聖宣さんによれば「武谷三段階論と脚気の歴史」で語っているように、現象論的段階というのは、それを越えて実体論的段階に行こうと決心したからといって、主観でそれを克服できるものではない。客観的状況によってそれは決まる。どれほど自分が願っていようとも、客観的条件が整わない限りは、現象論的段階にとどまってそれを徹底させなければならない。板倉さんは、具体的には次のように語っている。


「自分の願いに関わらず,自分は本質論的な法則を見つけたいと願っても見つけられない段階,見つけるべき段階でない段階がある。実体論的認識を目指したくたってだめだ。現象論的認識をきちっとやらなくては駄目だ。あるいは現象論的認識にとどまっていてはいけない。実体論的認識に進まなくてはいけない。あるいは本質論的認識に進まなくてはいけない。そういう情勢の時もある。その情勢は自分の気持ちとは関係ない。「俺は肝が小さいから本質論はできない。俺は現象論でいきたいよ」と言っても駄目。その時の情勢。つまり,その時の研究段階があってそれに併せて本質論的認識を進めなくてはいけない。」


自分の認識がどの段階にいるのかというのを、客観的に決められるということが三段階論においては重要なことのように感じる。それはいったいどのようにして判断できるのだろうか。本質論的段階というのは、言葉で表現すればあっけないくらいに単純になってしまう。しかし、その簡単な言葉を記憶しているだけでは認識は本質論的段階に達しているとはいえない。これは、学習において勘違いしやすいところだ。知っていることと理解している(認識している)こととは違う。では、どのようにすれば、単に言葉として知っているだけではなく、その内容までも理解しているという状態に至れるのか。

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by ksyuumei | 2007-08-20 18:50 | 論理