2007年 07月 24日 ( 2 )

国家概念抽象の過程 2

萱野さんは国家の定義の考察をウェーバーの次の言葉を取り掛かりにして始めている。


「国家とは、ある一定の領域の内部で--この「領域」という点が特徴なのだが--正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」


ウェーバーは「正当な物理的暴力行使の独占」という言葉に強調の傍点をつけているようだ。この定義は、萱野さんの「運動である」という定義とは微妙な違いを感じはするものの、暴力に関わる運動に関係しているという点でつながるものは感じる。これを取り掛かりにして、萱野さんが目的とする理論展開によりふさわしい定義を求めると「運動」というものに行き着くのかもしれない。そういう意味では、萱野さんが理論展開で目指しているものが何かを求めることが、萱野さんの国家定義の抽象の過程を理解するのに役立つかもしれない。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-24 23:30 | 論理

国家概念抽象の過程 1

萱野稔人さんの『国家とは何か』(以文社)を手がかりに、国家という概念が抽象されていく過程を考えてみたいと思う。国家という概念は、愛国心論議のときにも、それぞれの主張する愛国心の対象としての「国」というものがどうも違うものであると感じるように、その概念を明確につかむのが難しいものである。また、それぞれの国家概念は、どれも完全に間違っているとはいえるものでなく、ある面から見ればそのように見えるというものにもなっている。国家概念は、これが唯一の正しいものだというのを示すことも出来ない。それぞれの国家概念が、どのような抽象の過程を経て見出されたかという具体的な面から、その有効性をつかむことが概念の正しい理解ではないかと思われる。

さて、萱野さんはこの著書の中で、「しかし国家は実体でもなければ関係でもない。では何なのか。さしあたってこう言っておこう。国家は一つの運動である、暴力に関わる運動である、と」と、語っている。萱野さんの国家概念は、それは「運動である」という捉え方をしている。この概念は、どのような過程を経て抽象されてきたのか。抽象の過程で、具体的な属性として何が捨てられてきているのか。そして、その抽象と捨象によって、どのような理論展開の方向が見られるのか。その有効性はどういうものとして現れるのか。そんなことを考えてみたいと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-24 10:10 | 論理