2007年 07月 09日 ( 2 )

無限の考察あれこれ

「2006年03月03日 実無限と可能無限」というエントリーのコメント欄で武田英夫さんという方が幾つかの疑問を提出しているが、これに対して数学的にどう答えるかということを考えてみたい。無限ホテルのたとえと無理数である円周率の有限小数表現については以前の「現実存在である人間が無限を捉えることの限界」で触れておいた。残りのコメントで語られているものについて考えてみようと思う。

まずは、紙幣と現金の問題について考えてみようと思う。財布の中身を、紙幣の種類として考えれば、どんなにたくさんの現金があっても、1000円札、5000円札、10000円札の3種類しかないと語ることが出来る。しかし、これを現金の問題として、いくらあるかということに対する答として考えれば、2枚の1000円札は2000円という額になる。紙幣の種類として考えるか、現金の額として考えるかで、答が違ってくる。

この矛盾は、形式論理的な矛盾ではなく、「紙幣として見るか」「現金として見るか」という視点の違いによって、1(紙幣の種類としての1000円札)であるか2(1000円札という元気が2枚)であるかの違いが生まれる。ここには、「1であって1でない」という矛盾があるように見える。しかし、この矛盾は、視点の違いからもたらされるものであって、その視点は同時にはもつことが出来ないので、形式論理的には前提の違う命題になり、矛盾律に反することはない。紙幣としてみれば、それは1種類であると結論することは何ら矛盾ではない。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-09 14:39 | 論理

小室直樹氏の南京大虐殺否定論

南京大虐殺否定論として語られている言説に対して、今まで僕はあまり関心を引かれなかった。それは事実をめぐる否定論のように感じたからだ。事実というのは、石ころの存在すら主張するのは難しいと哲学で言われるように、それは100%確かだというのは難しい。常に反対を語りうるという、水掛け論の可能性をもっているのが事実をめぐる主張だ。

「あった」か「なかった」かという事実そのものをめぐる肯定論・否定論は形式論理的に見てもあまり面白いものではないと感じる。いくつかの条件を恣意的に選んでしまえば、「あった」という判断を捨象することができて(「あった」という判断に結びつくような事実はすべて誤差として排除する)、「なかった」という結論に結びつけることができるような論理展開ができる。他の前提を選びなおせば、逆に「なかった」という判断に結びつくような条件を捨てて、「あった」という判断を論理的に導くことが出来る。

南京大虐殺と呼ばれる事象に関して、事実として「あった」ことが確認できるのは、おそらく価値判断抜きに客観的に確定できることに限られるだろう。記録された南京市の人口だとか、南京攻略戦という戦闘終了後に埋葬された人の記録から得られる数字のようなものだ。これらの客観的数字は、事実としての信頼性を検討することが出来る。だが、これは「虐殺」そのものを語るものではないから、ここから「虐殺」を語るなら、「虐殺」というものの捉え方を語らなければならない。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-09 10:15 | 歴史