2007年 07月 06日 ( 2 )

宮台真司氏の左翼批判

無料で視聴できる第326回のマル激トークオンデマンドは、小林よしのり氏と萱野稔人氏を迎えてナショナリズムの問題を中心に議論をしていた。愛国心を教育基本法の中に盛り込み、愛国を叫んでいる安倍政権の中心にいるエリートたちがいかに愛国心に欠ける行為をしているかを皮肉をこめて批判しているところも面白いのだが、途中に挿入された、宮台真司氏の左翼批判が印象に残った。

宮台氏は、一つのエピソードを語りながらそれを左翼批判に結び付けている。それは、他の乗客がいるにもかかわらず、電車内で繰り返し強姦をしていた男がいたという事件に絡めたものだった。この男は、外見をやくざ風に装って、その行為を阻止しようとすれば自分が暴力的に襲われるように見えたらしい。だから、繰り返し同じようなことをしていたにもかかわらず、なかなかその行為を止めることが出来なかったようだ。

この男が犯罪行為を繰り返していたということは、その犯罪にかかわった人間は延べ人数にしたらかなり多いだろうと宮台氏は語っていた。発覚しなかった行為に関しては、そのときに関わった人間がみな見て見ぬ振りをしていたことになる。その男に直接対抗することは難しかっただろう。しかし、警察に通報するということくらいは出来たのではないかと思う。それすらなかったというのは、その無責任に対していくら非難されても仕方がないだろう。

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by ksyuumei | 2007-07-06 10:30 | 左翼の嘘

「しょうがない」という必然性(不可避)の判断

原爆投下に関して、それが「しょうがない」ものであるのかどうか、避けようのない決定だったかということの是非を考えてみたいと思う。もしこれが肯定的に判断できるものであれば、久間氏の判断は、客観的考察の結果としては正当だといえる。しかし、肯定的に判断できない時は、「しょうがない」という認識そのものは否定され批判されなければならないということになる。

これが、考えるまでもなく決まっていると素朴に考える人は、形式論理的に考察することをあきらめたほうがいい。その人は、物事を宗教的に信念(信仰)で判断する人ではないかと僕は思う。物事は、考える前にその判断が決まっていると考えなければ、「考えるまでもなく決まっている」という思考は出来ない。僕は、どんなに自明だと思えることでも、それを疑い、形式論理的な正当性を見出した後にその正しさを信じるという姿勢を持ちつづけたい。

原爆投下が「しょうがない」かどうかを考える前に、もう少し判断しやすい問題で、「しょうがない」という判断の構造を考えてみたいと思う。それは、明治維新後の富国強兵政策についてだ。僕は、富国強兵政策というのは、明治の日本にとって、他に取る道のなかった「しょうがない」道だったと思う。それが結果的に軍国主義につながるように見えたり、後の侵略戦争をもたらしたように見えても、なお富国強兵政策は「しょうがなかった」と思う。

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by ksyuumei | 2007-07-06 00:09 | 論理