2007年 07月 05日 ( 2 )

新聞社説に見る久間発言批判 2

久間発言を取り上げた新聞社説は多いものの、そのほとんどは「しょうがない」という言葉で語られた内容そのものよりも、それが原爆投下を「容認」したかのように語ったと誤解されたことを批判したものばかりだ。この誤解が、犠牲者の犠牲もやむをえなかったものと扱われ、原爆投下の責任を問わないということにつながり、感情的な反発を呼んだように見える。批判のポイントは「容認」というところに集中した。

しかし、これは久間氏本人が「誤解を与えた」と釈明しているように、「容認」そのものを語ったのではなかった。結果的に誤解を与えたことに対して、結果責任として政治家が責任を取るというロジックは成立すると思う。言っていることは間違ってはいないが、世間が誤解したために、政治家としてはその混乱に責任を取る必要があるというロジックだ。

これは、自民党の選挙対策として久間氏に辞任を迫る人間が自民党内にいたりしたので、政治的なロジックでそういうことが成立するのだろう。しかし、このロジックは、感情的な反発を感じている人間からは、政治家としての責任をとったという理解ではなく、「発言の間違いを反省していない開き直り」だという受け取られ方をする。僕の印象では、開き直りというよりも、久間氏自身は、発言を間違えているとは思っていないので、あくまでも混乱させたことを政治家として責任をとったのだというふうに見える。誤解という掛け違えたボタンは、誤解後の行動にまた誤解を生んでいるというふうに僕には見える。

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by ksyuumei | 2007-07-05 09:53 | 政治

新聞社説に見る久間発言批判 1

新聞社説は、短い報道記事と違って、どこがどのように批判されなければならないかが一応まとまって書かれている。この批判の形式論理的構造を考えてみたいと思う。形式論理において、ある命題Aを否定したい時は、Aを仮定して論理を展開したときに矛盾が導かれることを証明する方法がある。背理法と呼ばれる方法だ。これは、形式論理において矛盾は絶対的な偽である(真理ではない)ということから導かれる。

背理法は間接的な証明法だが、Aの否定命題を直接証明することが出来れば、文字通り、これもAの否定になる。この場合は、いくつかの認められた前提から、論理的な操作だけによってAの否定が導かれるという展開が必要になる。この場合、Aの否定の真理性は、いくつかの認められた前提が正しいということの妥当性によって保証される。

久間氏の「しょうがない」という発言の命題をAとしたとき、それを批判するということは、Aの否定を主張することになる。その批判に正当性・妥当性があるというためには、それが、より確実に真理だと言えるような前提から論理的に導かれているということが必要だ。どのような前提が設定され、どのような論理展開で「しょうがない」という久間氏の発言が批判されているかという視点で新聞社説を見てみようと思う。

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by ksyuumei | 2007-07-05 00:49 | 政治