2007年 03月 19日 ( 1 )

「差別」はすべていけないことか

僕は、「差別糾弾主義者」に対して、その「差別」の糾弾の仕方に不当性を感じていた。彼らの主張の一部に正しいものが含まれていたとしても、その糾弾の仕方では、糾弾される当の対立者にはもちろんのこと、それを眺めている第三者からも反感をもたれて支持はされないに違いないと思っていた。差別糾弾という運動が大衆的な広がりを持たなかったことから、僕の感覚は正しかったものだと思っている。

普通の感覚で言うと、「差別」というのは不当性を伴っているので、その不当性が糾弾されるということに関連して「差別」が糾弾されるというふうに受け取る。だから、その糾弾に違和感を感じて、糾弾するほうこそ不当なのではないかと思うのは、糾弾している「差別」の対象を間違えているのではないか、あるいは「差別」ではないものを「差別」にしているのではないかという感じを受けることがあるからだ。

僕は、実際に「差別」があったとしても、その糾弾の仕方にも問題があったと思っているのだが、一般的な感覚として「差別はすべていけないこと」というような流通観念にも疑問をもっている。「差別」がすべていけないというのは、「差別」という概念そのものにすでに不当性が含まれていると理解しているからだろう。だから、どこかに「差別」の現象を見つけたら、それを発見しただけで糾弾に値すると思ってしまう。そこに不当性があるかどうかという判断をしないで、「差別」だという判断で糾弾するに値すると思ってしまうのだ。

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by ksyuumei | 2007-03-19 09:38 | 雑文