2007年 03月 17日 ( 2 )

南京における虐殺という現象を「言語ゲーム」的に考えてみる

本多勝一さんの『中国の旅』から南京事件に関する記述を拾って、そこでの「虐殺」の現象がどのように考えられるかを、「言語ゲーム」的な発想で考えてみようかと思う。「言語ゲーム」の概念については、まだ充分わかったわけではないが、真理の決定における言語の影響という観点が大きいのではないかと感じている。

普通唯物論的に物事を捉えると、真理というのは対象である物質的存在をよく観察することによって、存在と認識との一致ということから得られるものと考えられる。初期のウィトゲンシュタインの考え方からすれば、言語が現実を映し出すという「写像」という考え方が、真理関数というものにつながり、現実の事実が言明の真理を示すと考えられる。

しかし、言語による言明が、現実の事実と完全に一致しなければ真理の判断は違うものになってしまう。言語の言明は、言語とは独立に存在している対象に属するものとしての真理と対応しているのではなく、言語を使うことによって真理が影響されるという関係にあるのではないか。それまでは真理の対象とならなかった事柄が、それについて語ることによって何らかの意味で真理と考えられるようになる。そのような現象が「言語ゲーム」として語られるのではないだろうか。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-03-17 23:30 | 言語

「蓋然性」は論理の問題

ある事柄に対してその信憑性が高いとか、それが存在する確率が高いという判断は、何か別の事実やデータを持ち出してそれを根拠に主張することではない。事実というのは、論理的に言えば真理のことであるから、真理であれば100%確かでなければならない。何かの事実を根拠に論証するときなど、その事実は100%確かだという前提で推論しなければ、推論が長くなればなるほど結論の信頼性が低くなってしまう。

事実が事実であるかどうか、つまりそれが真理であるかどうかは二者択一の問題であり、80%くらい真理だという判断などはないのである。真理は0か1かのどちらかであって、その信憑性という、われわれがそれを信じるかどうかという点で「蓋然性」が問題になるのである。信じるに足る根拠があれば信じるし、根拠があやふやであれば信じられないし、それは根拠となる事柄の論理性によって判断される。

以前にNHKの問題で、現在の安倍総理や中川経済産業大臣が圧力をかけたのではないかという問題があった。このとき、何らかの事実が見つかって、例えば「番組を改変しろ」という命令があったと証明されたら、これは「蓋然性」の問題ではなく、「圧力があった」という判断がされる問題になる。事実の確認は、「蓋然性」を高めるのではなく、まさに真理が決定することを意味する。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-03-17 16:16 | 論理