2007年 03月 14日 ( 1 )

「言語ゲーム」の本質

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方はとても分かりにくい。つかみ所のないものという感じがする。この難しい概念を理解するために、本質という面からこの対象に近づいたらどうだろうかと考えてみた。どのような対象が「言語ゲーム」と呼ばれ、どのような対象がそう呼ばれないかという、対象がもっている特質がつかめれば、この分かりにくい概念が理解できるのではないかと思った。

対象が単純なものではなく、複雑で難しい場合は、現象として見られるものとその本質とが違っていることが多い。だから、複雑で難しい対象を正確に把握するためには、その対象に関する本質論を考える必要があるのではないかと思う。本質論がうまく立てられるなら、それは対象の理解を深めることになり、教育や学習という面で大きな成果があげられるのではないかと思う。

このようなことを考えて、さて「言語ゲーム」の本質はなんだろうかと考えていた矢先に、参考図書として読んでいた『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均・著、ちくま新書)に次のような記述を見つけた。


「ところで、言語ゲームがいかに多様だとはいえ、それらがすべて「言語ゲーム」と言われるからには、それらすべてを貫く何か共通の本質があるはずではないか。ここで、それらすべてを「言語ゲーム」たらしめている当のものは何か、というソクラテス的な問いが立てられることになる。
 ウィトゲンシュタインは、この問いを拒否した。同じ名で呼ばれているからといって、そのすべてに当てはまり、他のものには当てはまらないような、何か一つの共通本質があるわけではないのだ。むしろ、相互に別々の点で類似しているものが集まって、一つの家族をなしているのである。彼はこのことを、比喩的に「家族的類似性」と名づけた。一つの家族は、体格、顔つき、目の色、歩き方、気質、といった別々の点で互いに似ているのであって、何か一つの点で互いに似ているのではない、ということである。だから、「ゲーム」と呼ばれるすべてのものに共有されるような本質的特長は存在しないのである。「ゲーム」だけではない。「数」の本質も、「生命」の本質も、「言語」の本質も、「科学」の本質も存在しない。さまざまな言語ゲームの中で、緩やかな家族をなしたそうした語が、実際に有効に使われている--それだけなのである。」

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by ksyuumei | 2007-03-14 09:13 | 方法論