2006年 12月 30日 ( 1 )

被害感情が判断の基準になる危うさ

今週配信されたマル激の議論の中で、いじめ問題を巡って宮台氏の次のような発言があった。それは、いじめに限らずセクハラ問題などでも、被害者がそう感じたと言うだけでそこに「いじめ」や「セクハラ」があったと判断するような議論があるが、これをどう考えるかという問題だった。

このことは僕も以前から考えていたのだが、この「だけ」ということを前提にすれば、それは論理的には間違いだろうと思っていた。それは、感じるという主観のみに判断をゆだねていて、とにかく被害者が感じた「だけ」で、他のことを二の次にして判断していたら、それは恣意的なものであり客観的な正しい判断にはならない。

そもそもいじめという現象は、それが客観的に判断できるものなのかどうか。極端な現れ方をするものについては誰もが一致していじめだと判断できるかも知れない。しかしそれでも、いじめる当人たちはそれをやめないと言うことは、もしかしたらいじめる方はいじめと感じていないのかも知れない。そんなとき、いじめられていると感じていれば、そこにはいじめがあったと判断していいかというのは難しい問題になるだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-12-30 11:43 | 雑文