2006年 12月 29日 ( 2 )

科学とは何か--仮説実験の論理

「反証可能性」という言葉は、そもそも科学と疑似科学とを区別するための判断基準として提出されたように感じる。「反証可能性」を持っていれば、それは科学としての可能性(将来科学として相対的真理であることが確認されるかも知れない)を主張できる。しかし、「反証可能性」をもっていなければ、それは科学としての資格を持つことはない、という判断が出来る。

科学と疑似科学との区別が難しいので、「反証可能性」があるかどうかで判断をしようという発想なのだろうと思う。ところが、この「反証可能性」の判断が、科学と疑似科学の区別の判断以上に難しかったら、最初の意図は達成されなくなる。「反証可能性」という概念はそのようなジレンマに陥っているのではないかと感じる。

「反証可能性」がないというのは、それが間違っているということが言えないと言うことだから、論理的な意味でのトートロジーでない限り、そのようなことを示すことが出来そうにないように感じる。「反証可能性」がないものの例として出されていた「適者生存」という法則も、これは論理的な意味でのトートロジーに還元できるからこそ「反証可能性」がないと主張できるものだった。

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by ksyuumei | 2006-12-29 22:28 | 科学

科学とは何か--反証可能性の意味

科学というものを考える際に、多くの人が頼りにする考えにカール・ポパーの「反証可能性」というものがあるのを知ったとき、僕はこれに大きな違和感を感じた。ポパーが主張することが間違っていると言うことではない。自然科学系(=数学系)から言えば、ポパーが語ることはごく当たり前のことだと感じる。その当たり前のことをことさら声を大にして主張しなければならないのはなぜかと言うことに大きな違和感を感じたのだ。

その疑問に答えてくれるような資料を「<科学哲学史(1) 帰納主義>」で始まる科学哲学史の記述の中に見つけた。ここでは、科学を観念的な思い込みでなくし、現実的に有効な理論として構築するために「帰納主義」という考えが提唱されたということから説明が始まっている。

「帰納主義」は、判断の根拠を現実に求めるもので、これ自体には何も不当なところはない。しかし、これは判断としては個々の個別的な判断についてしか語れないもので、科学のように一般的・普遍的な命題として語ろうとすれば、個別から普遍への論理の飛躍が必要になる。この論理の飛躍をうまく処理できないと、科学は「仮説」に過ぎないもので、新たな出来事に対してはそれが正しくない可能性をいつもはらんでいるものだと感じてしまう。

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by ksyuumei | 2006-12-29 11:48 | 科学