2006年 12月 03日 ( 3 )

絶対的真理と相対的真理(あるいは絶対的誤謬と相対的誤謬)

エンゲルスは『反デューリング論』の中で次のような記述をしている。


「真理と誤謬とは、両極的対立において運動するところ、全ての思考規定と同様、ごく限られた領域に対してだけしか、絶対的な妥当性を持たない。これはたった今我々が見た通りである。また弁証法の初歩を、すなわち全て両極対立というものが十全なものでないという、ちょうどそうしたことを扱っているところを少しでも心得ておれば、デューリング氏にもそれが分かることと思う。真理と誤謬との対立を右に述べた狭い領域以外に適用しようものなら、この対立はすぐさま相対的なものになってしまい、従って精確な科学的表現法としては役に立たなくなる。だが、もしも我々がこの対立に絶対的な妥当性があるとして、そうした領域以外にそれを適用しようと試みるなら、我々はそれこそ本当に失敗してしまうことになる。対立の両極はそれぞれの反対物に転化し、真理は誤謬となり誤謬は真理となる。」(第一篇 哲学 第九章 道徳と法・永遠の真理)


これは、三浦つとむさんが語っていた、真理とはその条件によって変わりうると言う考えにも通じる。真理は誤謬に転化するという発想だ。エンゲルスが語る「領域」とは、真理関数の定義域のようなものだ。ある命題が語る言明が、その「領域」の対象のみを語っているときには常に真理となるなら、その「領域」は真理関数の定義域になる。

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by ksyuumei | 2006-12-03 18:50 | 誤謬論

バックラッシュの必然性

バックラッシュというのは、保守的な層からの過剰な反動としてリベラルの側への不当な攻撃がされるというふうに僕は解釈している。それが不当であるという判断をもっていながら、それが起こってくる必然性を考えるのは、バックラッシュの正しさを考えようというものではない。たとえ不当なものであっても、それが現実に存在する限りは、存在するだけの根拠があり合理性があるはずだから、その合理性を理解したいという思いから必然性を考えたいというものだ。

学校におけるいじめの問題に関して、善意の人はそれは「あってはならないもの」という考え方をする。しかし、「あってはならないもの」が現実に存在するという矛盾はどのようにして受け止めたらいいのだろうか。多くの場合は、いじめをする方が悪いということで解釈されるだろう。

しかし、内藤朝雄さんは、いじめの起こる必然性を中間集団全体主義というものに求めた。そこにいじめが存在することの合理性を解釈することが出来たと言えるだろう。これは、そのような合理性があるからいじめが存在することが仕方がないとか、いじめをする方の責任が薄れるとかいう主張ではない。むしろ、中間集団全体主義の方を改善することによりいじめをなくすことが出来るという合理的な展望を語ることになる。

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by ksyuumei | 2006-12-03 11:24 | 雑文

仮言命題の難しさ再考

瀬戸智子さんから「またまた「おむつ」について」というトラックバックを「誤読をしたくなる心理と仮言命題の理解」というエントリーにもらった。この中の、仮言命題に関する部分を考察してみたいと思う。

僕が考える仮言命題というのは、ある仮定の下での結論を主張する形の命題で、仮定だけあるいは結論だけの単独の主張ではなく、「もしAならばBだ」という二つの命題の組み合わせでの判断を主張する形のものを指す。このときのAやBに当たるものは、命題であるという条件だけであって、その内容には何も触れていない。これは命題論理の範囲で考えているので、そのような対象を設定している。

だから、瀬戸さんが「仮言命題の最大の条件は「変項」を同じくすることです」と語ることの意味が僕には分からない。「変項」というものを設定すると、これは命題論理の範囲ではなく述語論理として考えることになる。しかも、仮言命題の場合に、「変項が同じ」という制限を設けてしまうと、その対象になるものがひどく狭められてしまうのではないかと考えられる。

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by ksyuumei | 2006-12-03 00:26 | 論理