2006年 08月 28日 ( 2 )

リベラルの側の失敗とバックラッシュ

今はやや下火になってきた感じがするが、ちょっと前の一時期にネット上での「サヨ叩き」というものが席巻した時があった。イラクでの人質事件に関連して、人質になった3人を叩く言説がその典型だっただろうか。

そのほとんどは、論理としては全く不当なもので、非難する理由のないところにまでけちをつけて文句を言うためにアラを探す、あるいはアラを作り出して捏造するという感じのものまで見えたものだった。自作自演だというような非難はその際たるものだったかも知れない。

イラク人質事件の3人は、いわゆる左翼系の人々だと言うことで、それだけを理由にして叩かれる対象になったとも考えられる。これは全く不当なことで、根拠ある正当な批判であれば議論をする価値もあるのだが、これらのバッシングはバックラッシュと呼ぶにふさわしい反動ではないかと感じたものだ。

これら根拠のない非難を浴びせる人間たちはかなりの多数に達したものの、彼らは間違っており、その論理的な誤りを指摘すれば、論理としての批判は終わってしまう。そして、根拠のない非難を浴びせるひどい奴らだと言うことで、そのことは片づけられてしまう。しかしそれで批判は全て終わったと決着をつけていいのだろうか。

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by ksyuumei | 2006-08-28 18:09 | 雑文

不当な差別・バッシングに合理的な理由はあるか

内田樹さんは『私家版・ユダヤ文化論』という本で「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」ということを論じている。この問題に対する答は、「ユダヤ人迫害には根拠がない」と答えるのが「政治的に正しい解答」だという。つまりユダヤ人迫害は不当な差別・バッシングだということだ。

これはある意味では当然のことである。だから、この当然のことに疑問を差し挟むだけで、それは「ユダヤ人迫害には根拠がない」ということを否定しているように感じてしまう気分が生じる。つまり疑問を提出することが「根拠がある」と言っていることに等しいと受け取られてしまう。これは非常に危険な主張ではあるが、論理的には、疑問を提出することと対立する主張を否定することとは同じことではないはずだ。

疑問を提出することは、思想・信条の自由の表現として、それが学問的内容を持っていれば学問の自由として保障されるべきことだと思う。その主張に誤りがあれば批判されるのは当然であるが、疑問を提出したことそのものが間違いだと断罪されてはいけないと思う。

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by ksyuumei | 2006-08-28 09:01 | 内田樹