2006年 08月 01日 ( 1 )

抽象的な批判と具体的な批判

仲正昌樹さんは『ラディカリズムの果てに』(イプシロン出版企画)という本の中で「ラディカル」というものについて語っている。それは、「ラディカル」の批判を語っているのだが、「ラディカル」という抽象概念そのものの批判と、「ラディカル」を体現していると思われる具体的な人々に対する批判とを区別して捉えないとならないのではないかと思う。

まずは「ラディカル」という言葉の意味だが、仲正さんは次のように語っている。ちょっと長いが引用しておこう。


「昔左翼だった人がよく「ラディカル」ってことを強調していたし、今でもけっこう強調している人はいるけれど、この「ラディカル」という言葉には少なくとも二通りの意味があると思います。その二つのレベルが時としてごっちゃになって使われるので、どういうのが「ラディカル」なのかわかりにくくなっているような気がします。
 まず「ラディカル radical」の意味を英語の辞書で見ると、「根本的」とか「根元的」というのがあります。「根」と関係があるんですね。ラテン語で「根」のことを radix と言いますが、多分、radix にまで遡って「考える」とか、その遡った根元的思考に従って「行動する」というような文脈で「ラディカル」という言葉が使われるようになったんだと思います。そこで「思考」の面での「ラディカル」と、行動の面での「ラディカル」が出てくるわけですが、この二つのレベルはなかなか一致させるのが難しい。なぜ一致しにくいのか?
 当たり前のことですが、「根本に遡って考える」っていうのは、外から見てすごくわかりにくいんですね。「何が根本なのか?」ということそれ自体がそもそも問題なんだから、本人が「私は根本まで掘り下げて考えている」と自称しても、そう簡単には信用出来ません。キリスト教の信仰でいうところの「原罪」のようなものをイメージしているのか、初期マルクスの「疎外」のようなものなのか、それとも精神分析でいうところの父殺しのようなものなのか?自分が「根本」だと感じているのとは違うものを“根本”だと言われても納得出来ないでしょう。」

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by ksyuumei | 2006-08-01 11:00 | 雑文