2006年 05月 26日 ( 1 )

方法論としてのフィクショナルな前提

大きな失敗をしたにもかかわらず、出直しの姿勢に暖かい言葉をかけてもらえて感謝の気持ちで一杯だが、その一つ一つの言葉に返事を返す余裕がまだ無いので、折に触れてそれらのコメントに触れることで返事にさせてもらうことをお許しいただきたい。

さてそのコメントの中でも非常に心にとまったのが、mojimojiさんの次の記述だ。


「「一方的な反批判停止」の中で、「つまり、行動面においては、僕は決してフェミニズム的な批判は受けないと思っている男だ。少しでも、抑圧的・封建的なところがあると指摘されて、その指摘が正しいものであればそれを改めるという柔軟性も持っていると僕は思っている」という部分、お気持ちはよく分かるのですが、これは僕自身の自戒もこめた仲間へのアドヴァイスとして申し上げるのですが、そのように言いたくなる心情こそが、私たちが警戒すべきものです。自分の中の気づかないところに抑圧的なプロトコルが仕組まれているだろう、ということを、方法論的前提として常に忘れないようにするのがよりよい対処法かなと思います。実際、自分の行動の中に抑圧的なものの欠片を発見し、肝を冷やすことは今でもしばしばあります。」
「偏見が生まれてくる前段階について」のコメント…はてなダイアリー)


このような記述に関して、以前の僕ならある種の反発を感じて読んでいたかも知れない。しかし、一つの失敗を経た今は、この言葉を冷静に受け止めて、その正しさを理解することが出来る。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-05-26 09:00 | 雑文