2006年 05月 23日 ( 4 )

自らの誤謬から学べること

偏見からの「構造的無知」が晴れてみると、自分の論理展開がまったく無理な詭弁であることがよく分かる。まさに構造的無知というのは、その本人にはまったく見えないことが、外にいれば容易に見えてくるという構造を持っている。ばかげた論理を展開したものだと思う。

僕は「構造的無知」から、自らの過剰反応に気づかず、むしろ批判する側の方を過剰反応だと思い込んでいた。しかも、その過剰反応は、気に入らない言説を叩くためだけに批判しているのではないかという、被害者意識につながっていた。これも「構造的無知」から来る妄想だ。

被害者意識を持ったことが、逆に僕の攻撃性を増す方向へと働いてしまった。向こうが叩いてくるなら、叩き負けないくらいに叩き返さなければならないと言う感情が生まれてしまったのだ。守るために攻撃するというメンタリティは、男に多いものだろうか。とにかく、そのメンタリティによって、誤解からとはいえひどい言葉を投げつけたものだと思う。人格的な非難を浴びても仕方がないとさえ思っている。その時に悪口雑言を浴びせた方には、たいへん申し訳ない思いを感じて、ただ恥じ入るだけだ。

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by ksyuumei | 2006-05-23 23:37 | 雑文

一方的な反批判停止宣言

このようなタイトルでエントリーを立てるとまた反発を呼びそうな感じもするが、自分の偏見に気づいた今となっては、その偏見を指摘される批判に対して反批判を返す意味が無くなった。というよりも、それは正当な指摘であるから、いくら叩かれてもそれを受け入れなければならないと言う感じだろうか。

こういうとき、指摘の一つ一つに答えて、その批判を受け入れるかと言うことを答えた方が誠実なのかも知れないが、一つ一つ検討していくと微妙で受け入れに躊躇するものも出てきそうなので、とにかく、反批判はもうしないということで、以前のエントリーは自由に叩いてもらいたいという姿勢だけを表明する。これを無責任だとまた批判されても、今のところはそれに反批判する気はないので、とりあえずフェミニズムに関することには反批判をしないことを一方的に宣言する。

そして、最後に、自分の持っている偏見を、偏見として率直に語ることに努力をしたいと思う。理論武装するのではなく、率直な思いとしての偏見を語ることに努力して、以前の失敗の反省をしたい。

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by ksyuumei | 2006-05-23 09:47 | 雑文

瀬戸さんの指摘はほぼ全面的に正しかった


昨日瀬戸さんのトラックバックに対して返事を返したとき、最後に


「内田さんによれば、フェミニズムはすでに終わってしまったと感じられている。そうであれば、どこで破綻していったのか、その分かれ目がどこにあるかが僕の次の関心になる。僕は、フェミニズムに対しては、論理的考察の対象以上の何の感情も抱いていないのだ。」


と僕は書いた。書いた後で、オレは何をこんなに力んだ書き方をしているんだろうという思いがふと頭をよぎった。そして、よく考えてみたら、瀬戸さんが指摘するように、僕が書いた最初のエントリーの題名が問題だと言うことが急に理解出来た。

よく考えてみれば、あのエントリーは、僕が抱いている「フェミニズム」という言葉に対する偏見が基礎になって書かれているものだ。僕はその偏見を偏見として自覚してはいたものの、インテリのイヤらしさから、偏見を理論武装しようとしてしまった。偏見であるなら、偏見として率直に語らなければならなかったことに気づいた。

僕に理論武装するだけの能力がなければそんなことをせずにすんだのだろうが、その率直さが無かったことが、偏見を理論武装するという間違いを犯してしまったように感じる。

このことが分からなかったので、偏見を指摘する声をすべて過剰反応だとしか受け取れなかった。これは、そもそも僕が「フェミニズム」に抱いていた偏見のせいで、いろいろな現象に過剰反応していたことが、あのエントリーの原因であったのに、自分の過剰反応に気づかなかった僕は、僕のエントリーに対する反応も過剰反応であるという理解しかできていなかったようだ。「構造的無知」というものだろう。その部分だけは、僕の頭からはまったく抜け落ちていた。本当にまったく理解出来なかった。

瀬戸さんに対して、何であんなに力んだ言葉を返したのだろうと言うことがきっかけで、ようやくこの「構造的無知」に気がついた。僕のあのエントリーは、全くの偏見から出発したものでありながら、その偏見が生じてくるのを理論的に捉えようとしたことが間違いだった。偏見が正しいことを証明しようとしたのではないが、偏見が生まれることはやむを得ないと言うことを理論的に語ってしまったことが間違いだった。あの偏見は、まったく僕の個人のものとして語らなければならなかったのだ。そのことを自覚したくなかったのだろうな。全くの「構造的無知」だと思う。

とりあえず、瀬戸さんに僕の間違いを伝えたいと思い、この短いエントリーを立てる。
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by ksyuumei | 2006-05-23 08:24 | 雑文

可能性(可能無限)とイズムの暴走性

瀬戸智子さんから「論理学の勉強」というトラックバックをもらった(ライブドアブログで)。コメント欄に書き込もうと思ったのだが長くなりそうな気がしたので一つのエントリーとして立てることにした。

「すべての命題は相対的である。」という言葉の意味を解釈すると、これは、すべての命題には真になる場合もあれば偽になる場合もあるということになる。これは、「すべて」という言葉で語っている世界が、どの世界なのかで違ってくる。

「すべての命題は相対的である。」という命題は、形式論理の世界では成り立たない。形式論理の世界では、一度真だと決めた命題は、永久に真でなければならない。相対性はないのである。必ず偽になる命題は「矛盾」と呼ばれるが、形式論理の世界では「矛盾」が真になることはない。もしそのようなことが起こったら、形式論理の世界そのものが破綻する。

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by ksyuumei | 2006-05-23 01:07 | 論理