2006年 05月 21日 ( 5 )

「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 1

chikiさんからもらった批判(「数学屋のメガネさんへの再批判。」)を読んで驚いた。これは、実に見事な批判だ。と言うと何か敗北宣言をしているようだが、初めてまともな批判をもらったという驚きと、これだけ見事な論理展開を見せてくれたchikiさんに、正直言って非常に尊敬の念を抱いている。しかし、だからなおのこと、納得するまでこれに反批判を送りたいと思う。

chikiさんが、途中で嫌気がさすようなら無視していただいてもかまわないが、これだけ見事な論理を語る相手と議論が出来るならば、こんな素晴らしいことはないと思っている。

まず納得出来ないことの第一だが、「「フェミニズム」をひとつの統一主体であるかのように論じること&求めることの問題点」と語られている部分だ。僕は、あのエントリーで、冒頭に語ったように、行き過ぎたフェミニズムということを考察して、論理的に逸脱する可能性というものを考察している。だから、「フェミニズム」一般について論じたのではないし、一つの統一主体だなどと主張してもいない。

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by ksyuumei | 2006-05-21 23:11 | 雑文

事実としての『フェミニズムの害毒』

僕は、フェミニズムの持つ論理の暴走性というものに注目をし、それに気をつけなければ真理が誤謬に転化するのではないかという、第三者的な視点を提出しているのだが、どうもフェミニズムの側にいる人にはそれがひどく気に入らないようだ。

どのトラックバックを見ても、フェミニズムにそのような論理的な暴走性はないということは書かれていない。フェミニズムはそのような主張はしていないとか、実際にフェミニズムが暴走した実例を提出せよというようなことは書かれていた。

そこで仕方がないので、林さんの『フェミニズムの害毒』から、林さんが暴走した逸脱したフェミニズムが引き起こした害毒だと受け取っていることを事実として提出してみたが、林さんからの引用というのがまた気に入らなかったようで、これも「フェミニズムではない」という言葉が返ってきたようだ。

どうも論理が通じない相手と論理的な会話をするのは難しい。僕が論じているのは、フェミニズムという考え方の暴走性であって、フェミニズムそのものが間違っているという議論ではないのだ。だから、林さんからの引用の事実も、あくまでも、フェミニズムという考えが暴走したら、このように受け取って間違った判断をする人たちが出てこないだろうかと言うことを語っているのである。

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by ksyuumei | 2006-05-21 21:58 | 雑文

行き過ぎたフェミニズム批判としての『フェミニズムの害毒』

行き過ぎたフェミニズムなどもはや存在しない。それはもう終わった問題なのだ、というような意見をちらっと目にした。何を今さらそんなことを問題にするのか、というわけだ。しかし、これはずいぶんとおめでたい無防備な考え方だなと思う。そう考える人は、いい人ではあるのだろうが、手練手管に長けた反動側の攻撃にはひとたまりもなく潰されてしまうだろう。

実際にはフェミニズムというのは、その論理構造からいって、常に行き過ぎる可能性をはらんでいるのである。だから、行き過ぎに注意していないと、うっかり失敗することが必ずある。反動側の人間はその失敗を見逃さず、いつでもフェミニズムを叩けるというチャンスをうかがっているだろうと思う。誤謬に対して鈍感なフェミニズムは、リベラルの信用も落としてしまうことになるだろう。

面白いことに、内田樹さんが『フェミニズムの害毒』の書評を書いているのだがそこにこのような記述がある。

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by ksyuumei | 2006-05-21 17:48 | 雑文

ジェンダーへの疑問

竹村和子さんは『フェミニズム』(岩波書店)の中で、ジェンダーについて語っている。ジェンダーは普通次のように考えられている。


「生物学的な所与の性差と考えられている「セックス」と比べ、「ジェンダー」はセックスの差異の上に構築される「社会的・文化的な性差」、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」だと理解されている(この因果関係に対しても、後に疑義が突きつけられる)。」


ジェンダーにとっては、社会というものが重要なキーワードになる。このジェンダーに関しては、フェミニストの間でもまだ意見が分かれている部分があるそうだ。それは後ほど見ることにしたいと思うが、僕は、ジェンダーの考え方そのものの中に論理の逸脱の危うさを感じるところがある。

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by ksyuumei | 2006-05-21 14:22 | 雑文

フェミニズム理論の逸脱する可能性

単語に過剰反応して文脈理解をしない者がいるので、冒頭に一言断っておくが、これから述べることはフェミニズム一般の批判ではない。フェミニズムの理論において、正しい範囲のものが、いかにして誤謬に転化していくかという過程的構造について考察しようと言うものだ。

真理と誤謬を対立した二つのものとして、相容れない固定化したものと考える人には、真理が誤謬に転化すると言うことは理解が難しいかも知れない。しかし、真理というものが、ある対象に対する認識において判断として存在することを理解するなら、その対象と認識との関係から、条件を逸脱して誤謬に転化する可能性があることが分かる。それが真理と誤謬との弁証法的関係だ。

三浦つとむさんは、人間の認識に誤謬が伴うことを必然的なものとして本質と捉えた。誤謬というのは、頭が悪かったり・能力がなかったりすることで引き起こされるものではない。人間の認識がある種の制限を受けていることから、その制限を逸脱する可能性をもっていて、そこから必然的に生み出されるものなのだ。

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by ksyuumei | 2006-05-21 11:02 | 雑文