2006年 04月 23日 ( 3 )

ラカンの言説の一流性 4

内田樹さんは『他者と死者』の中で、「師」の必要性を説く。学ぶという行為が本当に実りあるものになるためには、学習者は、その師を見つけなければならないということだ。内田さんは、『先生はえらい』という本も書いているが、これの本当の趣旨は、「先生」を「師」にするには、「えらい」という感覚が必要だというものではないかと思う。

「師」というのは、結果的に相手が偉いと言うことが分かって「師」になるのではなく、かなり直感的に選ばれるもののようだ。自分自身を振り返ってみても、三浦つとむさんを「師」と選んだのはかなり直感的なものだった。三浦さんの『弁証法・いかに学ぶべきか』という本を手にしたとき、その1ページ目を読んだ瞬間に僕は「師」と出会ったという感覚を持った。

学校の先生を「師」と感じることの出来ない今の子供たちは、学習において実に不幸だと思う。それでも、どこかに「師」と仰ぐことの出来る人を見つけられればいいが、そのような人物に出会わなければ、一生学ぶということの本質を知らずに過ごしてしまうのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2006-04-23 17:38 | 雑文

ラカンの言説の一流性 3

『他者と死者』の中で内田さんが引用している次のラカンの文章の理解を考えてみようと思う。


「我々はこれまでの研究によって、反復強迫(Wiederholungswang)はわれわれが以前に記号表現(シニフィアン)の連鎖の自己主張(l'insistance)と名付けたものの中に根拠をおいているのを知りました。この観念そのものは『l'ex-sistance』(つまり、中心から離れた場所)と相関的な関係にあるものとして明らかにされたわけですが、この場所はまた、フロイトの発見を重視しなければならない場合には無意識の主体をここに位置づける必要があります。知られるとおり、象徴界(le symbolique)が影響力を行使するこの場所の機能が想像界(l'imaginaire)のどのような経路を通って、人間という生体のもっとも奥深いところでその力を発揮するようになるのか、このことは精神分析によって始められた実際経験の中で初めて理解されるのです。」


この文章は、内田さんによれば『エクリ』と呼ばれるものの冒頭の一文だと言うことだ。冒頭であるにもかかわらず、「知りました」と書かれている内容に対する説明がない。つまり、この「知りました」の内容はすでに共有されているという前提で書かれている。

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by ksyuumei | 2006-04-23 13:34 | 雑文

ラカンの言説の一流性 2

内田樹さんは『他者と死者』(海鳥社)の中で、「わかりにくく書く人には二種類がある」と語っている。一つは「難しいことを言うことが知的威信の一部だと思っている人々」だ。これは、自分がいかにものを知っている賢い人間であるかを示すために難しく書こうとする。難しいことが賢いことの証明になると思い込んでいる人だ。

これは、本多勝一さんが、かつて「お勉強発表会」と呼んだような文章になるだろう。本題とは関係のない知識をずらずらと並べ立てるような文章だ。それは、おそらく本人もよく分かっていないのだろうが、どこかからコピーしてきた文章をちょっと加工しているのかも知れない。

それに対して、三浦つとむさんや板倉聖宣さんの文章は、極めて平易な語彙の言葉を用いて本質を語るという工夫を凝らしている。そのような文章は、分かりやすくしかも本質を外さないという一流性を持った文章になっている。僕は、三浦さんの文章で弁証法の本質を知り、板倉さんの文章で科学の本質を知った。

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by ksyuumei | 2006-04-23 10:18 | 雑文