2006年 04月 22日 ( 3 )

解釈の正しさについて

ラカンについて調べていたら、「生き延びるためのラカン 第1回「なぜ「ラカン」なのか?」」という斉藤環さんの文章を見つけた。ここでは、携帯電話がなぜ不快に感じるかを、ラカンを応用して分析していた。

その結論は、


「電車内で携帯電話をかける人は、電車内で訳のわからない独りごとを大声で呟いている電波系の人と同じ存在だから。あの理屈抜きの、ほとんど反射的な嫌悪感のみなもとは、そこにある。」


というものだった。ここで語られている「電波系の人」というのは、「精神病の人」と同じ意味で使われている。そして両者に共通しているのは「僕たちと同じ言葉を喋れなくなった人」ということだという。これをもう少し詳しく語ると次のようになる。

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by ksyuumei | 2006-04-22 22:43 | 雑文

ラカンの言説の一流性 1

はてなの日記「■[雑文]難解な文章について」に、わどさんからコメントをもらった。それに対する返事として僕は次のようなことを書いた。


「大江源三郎氏の文章がわかりにくいのは、4つほどの仮説が考えられます。1つは、大江氏が、情緒の人で、論理よりも情緒が先行してしまうので、より情緒的に強く感じたものから順に表現してしまうため、論理性が失われてしまうという可能性です。
2つ目の可能性は、基本的な文章表現能力の問題です。分かりやすいという技術的なものを持っていないために分かりやすい文章が書けないと言う単純な理解です。
3つ目は、ワザとわかりにくく書くという意図的なものです。内田樹さんによれば、読者に対する気づきを喚起するための技術として、ワザとわかりにくく書くという事があるようです。大江氏もそのようにしていると考えると、文法的には間違っていないけれど、わかりにくく書くという事があるかも知れません。
4つ目は、非常に複雑で難しい対象を記述しているために、その複雑さが表現にも現れてきてわかりにくくなっているという理解です。これは、その意味を分析的に理解することも難しくなります。
以上4つの可能性が考えられますが、僕は、情緒の問題が一番大きいのではないかと思っています。僕の理解が当たっていれば、大江氏が語る対象そのものは決して難しいものには思えないからです。もし僕の理解が当たっていないなら、それはどの予想が正しいかまったく分かりません。」

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by ksyuumei | 2006-04-22 15:27 | 雑文

「事実」は実体的(物質的)存在ではなく観念的存在である

本多勝一さんは、『事実とは何か』という著書の中で、「客観的事実」の「客観的」という言葉について論じたことがあった。その趣旨は、100%客観的と呼べるような「事実」はないということだった。つまり客観的と言うことを、文字通り<人間の意識とは独立している>という意味に受け取ってしまうと、それは完全には成り立たなくなる。「それが事実だ」という判断において、どうしても人間の頭を通過するという「判断」を経なければならないと言うことから、主観が入り込んでしまうからだ。

この主観を排除することは、「判断」をしないということだから、「事実」ということが言えなくなってしまう。だから、100%客観的な「事実」はあり得ないと言うことになる。それでは、100%客観的な事実がなかったら、そもそも客観的な事実というのはまったくあり得ないのか?それは反対の極に行きすぎた間違いだ。

現実が視点を変えると対立した面を持っているという、弁証法的な理解をすることが出来るなら、ある視点からはその判断は「客観的事実」であり、ある視点からは主観が入り込むために「客観性」が完全ではないと言う意味で「客観的事実」ではないと言えると理解しなければならない。

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by ksyuumei | 2006-04-22 10:59 | 雑文