2006年 04月 02日 ( 3 )

作者の死

「作者の死」と言うことは、三浦つとむさんが、構造主義者の妄想として退けていた事柄だった。三浦さんは、「作者の死」と言うことを作者の存在がないということと受け取った。もし、作者がまったく存在しないのなら、作品は自動的に生み出されると言うことになってしまう。その自動的に生み出す装置はどこにあるかということが、論理的には求められるだろう。

三浦さんは、作品を自動的に生み出すこの装置を、構造主義者が「構造」と呼ぶものであって、それは妄想に過ぎないと批判していた。三浦さんが考えたのは、作品を生み出す主体は「観念的に分裂した自己」であるというものだった。構造主義者は、この存在を捉えることが出来なかったので、作品を生み出す主体を見つけられず、「作者は死んだ」という妄想を持ったのだというのが三浦さんの批判だった。

文学作品の場合、作者は登場人物に成り代わって、作品世界の中でいろいろな体験をして、それを記述する。必ずしも主役が作者と重なるわけではない。作者は、観念的に分裂した主体として、それぞれの登場人物になる。そして、ある時はその世界を外から眺めている語り手の立場に移行したりもする。作者は死んだのではなく、分裂して形を変えた存在として生きているというのが三浦さんの主張だと僕は理解した。

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by ksyuumei | 2006-04-02 17:31 | 内田樹

映画の評価について

今週配信されたマル激は、無料だということなので、映画に関心がある人はぜひ見ることをおすすめする。映画の評価というものについて深く考えさせてくれる、一流の映画評の言説が語られている。

僕は、かつて「ディア・ハンター」というアカデミー賞映画を、本多勝一さんが批判した文章を読んだことがある。僕は、主演したロバート・デ・ニーロが大好きで、この映画をリアルタイムで見た20代前半のころは、とても感動したものだった。

しかし、本多さんの批判を読んでからは、もはやこの映画を感動をもって見ることは出来なくなった。それは、この映画には、本質的な嘘が入っていると思ったからだ。劇映画はフィクションであるから嘘が入るのは当然なのだが、この映画の嘘は、そこから得られる感動も嘘だというものにつながる嘘だったのだ。

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by ksyuumei | 2006-04-02 13:04 | 映画

内田樹さんの一流性

内田樹さんは、その評価が両極端に別れる人で、とんでもない間違った言説を撒き散らす人だと評価する人もいれば、僕のように、その語ることに一流の香りがすると高く評価する人もいる。僕が、内田さんが一流の言論人だと確信したのは『寝ながら学べる構造主義』という本を読んでからだ。

僕は学生時代に三浦つとむさんを通じて唯物論哲学を知った。心情的には実存主義というものに惹かれていたのだが、構造主義も大ブームを引き起こしていたのでそれなりの関心を持っていた。しかし、構造主義はついに分からないままだった。

「構造」というものについてならある程度のイメージは出来る。数学的構造なら自分の専門でもあるからだ。ところが「構造主義」というふうに「主義」がつくと、何がなんだかわけが分からなくなるのだ。しかも、「構造主義」と言われる哲学書を読むと、これが哲学としてわけが分からないものにしか見えない。

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by ksyuumei | 2006-04-02 10:18 | 内田樹