2006年 03月 27日 ( 3 )

『国家の品格』の二流性 4

「論理は長くなり得ない」(55ページ)と言う記述の内容を批判することにしよう。ここでの二流性は、この議論が俗受けしやすい、論理(理屈)の攻撃になっているところだ。長い論理は屁理屈の代表のように語られ、短い論理は、短絡的な強弁のように非難されている。確かに長い論理には屁理屈であるものも存在するし、短い論理には、何も考えずに現象だけを見て判断しているようなものもある。

しかし、最初からそういう低レベルの論理を挙げておいて、だから論理はだめなのだという結論に導いていくのは、それこそ詭弁という名のご都合主義的論理だ。論理が長くなるのはどういう場合なのかをもっと深く考察し、長さ故に論理がだめになるのか、それとも他の理由の方が大きいのかを考えなければならない。そうすれば、長さというのは現象的・末梢的な属性であって、論理がだめになるのは他の原因の方が本質的であることが分かるだろう。

藤原さんは、数学を取り上げて、数学の論理は必ず各ステップが正しいという、正しさの確率が1だから、どんなに長くなっても、全体の正しさの確率もそれをかけ算した1になるから、それは長くなってもいいのだと説明する。しかし、数学以外の、世の中のことを対象にした論理では、正しさの確率が1にならないから、長くなればなるほど、正しさの確率は小さくなってしまう。だから、長い論理はだめなのだという展開をしている。

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by ksyuumei | 2006-03-27 22:22 | 雑文

論理的に考えられた論理の「出発点」

内山節さんの『貨幣の思想史』を読んでいたら、ウィリアム・ペティが国家の富を論じた部分で、その論理の出発点となるものを、実に見事に論理的に考えている部分を発見した。この出発点は、情緒をまったく排して、徹底して論理的な考察をした結果として導かれている。それだからこそ極めて説得力があるように僕には見える。

ペティの問題意識は、当時オランダに押され気味だったイギリスの国力を増加させるところにあった。国力の増加には国家の富を増やすことが必要だと考えたのだ。これは極めて論理的な展開だ。

  国家の力が大きい →(ならば) 国家の富が大きい

と言う仮言命題が正しいと考えるなら、国家の富の増大は、国家の力の増大の「必要条件」になる。これなしには国家の力の増大は考えられないものになる。なぜなら、この対偶を取ると

  国家の富が大きくない →(ならば) 国家の力が大きくない

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by ksyuumei | 2006-03-27 12:11 | 論理

『国家の品格』の二流性 3

『国家の品格』では「重要なことは押しつけよ」(49ページ)という議論が展開されている。これは理由なしに正しいことがあるという前提から、それは押しつけることこそが正しいという主張をしているのだと思う。これは一種の「パターナリズム」というものだろう。

「パターナリズム」というものは、僕は嫌いなのだが、一定の条件の下でそれが正しくなることもあると思う。これは、本人の自己決定権という意志の自由に反して、他人が何らかの決定をしてやることになる。それは、例外的に正しくなる場合があると理解しなければ、自己決定権を侵害することになるだろう。

例外的に正しくなる場合とは、本人の決定よりも、専門的な知識を持っている他人が判断する方が絶対的に正しい決定が出来るという場合が一つだ。これは、患者が医師に治療法の決定をゆだねる場合などがそれに当たるだろう。しかし、この場合でも、その医師に決定をゆだねるかと言うことは自己決定的に行わなければならない。どの医師に相談した方がいいと言うことまでは押しつける正当性はないだろう。この場合は「絶対的」と言うことが条件のポイントになる。「絶対的」ではないときは、押しつけには正当性がなくなると僕は思う。自分の判断で、たとえ結果的に失敗をしたとしても、それは失敗することさえ権利の一つだと僕は考える。

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by ksyuumei | 2006-03-27 09:55 | 雑文