2006年 03月 25日 ( 3 )

「贈与」の考察 1

内田さんが<「労働」は「贈与」である>と主張している、と誤読する人たちがたくさんいるのだが、これは、「2005年05月19日 資本主義の黄昏」の中の「自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)」という言葉を誤読したものだと僕は思っている。

僕は、この誤読の最大の原因は、「本質」と言うことが理解出来ていないからだと思っている。それは、誤読する人たちが、「本質」という言葉を使わずに表現していることから推測した。「本質」という言葉を使えば、誤読した言葉は、

  <「労働」の「本質」は「贈与」である>

という言い方になる。これも誤解されそうな難しい内容を含んでいるが、<「労働」は「贈与」である>という非論理的な表現よりはよっぽど考察の対象となるものになる。そして、この場合にこの言葉の内容を深く理解しようと思ったら、「贈与」という言葉に対する深い理解がなければならないことに気がついた。

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by ksyuumei | 2006-03-25 16:59 | 雑文

『国家の品格』の二流性 1

二流性を考察するなどと言うと、何か悪口を言っているように感じる人もいるかも知れない。これが、まともな論説になるのは、感情的なすっきり感を持つための考察ではなく、あくまでも冷静な論理的考察にならなければならないと思う。

そもそも二流と言うことにはそれほど悪い価値があるわけではない。誰でも一流の面をもっているし、同時に二流の面ももっている。一流の面は、表面に現れた末梢的な「現象」だけでなく、隠された「本質」を解明出来るだけの能力に関係した部分だ。誰でも何らかの得意分野では一流の面をもっているだろう。

しかし、それほど深く考えず、感情の流れにまかせて判断している事柄は、やはり二流にならざるを得ないだろうと思う。僕は、ある言説が論理的に正しいかどうかと言う判断では、一流の技術を持っていると自負しているが、例えばある歌が芸術的に優れているかどうかと言う判断においては二流の判断しかないと感じる。それは、歌の場合の判断は、単純に好きか嫌いかという判断しかしていないからだ。それがいかに優れているかと言うことを、その本質に迫るような深さで捉えてはいないからだ。

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by ksyuumei | 2006-03-25 13:47 | 雑文

定義の問題

Kawakitaさんの「内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?」というエントリーに書かれている「労働」の定義について、それは論点先取の間違いではないかという批判があるようだ。Kawakitaさんは、「労働」を「生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと」と定義している。

この定義には、定義そのものに、Kawakitaさんのもう一つの主張である「内田氏は「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と明確に述べています」と言うことの内容が含まれているように見えるからだ。「労働」をこのように定義すれば、それからすぐに「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と言うことが導かれる。これは定義そのものと論理的に同値になるからだ。

ある主張をしたいときに、その主張が含まれているような定義を出発点として論証をするなら、それはどのような主張でも証明出来ることになる。しかも、それは言葉の上で(形式論理的に)証明出来るので、現実を観察する必要がない。現実と無関係に、現実と関わりのある主張を証明しようとすれば、普通はそういう主張は空理・空論と呼ばれる。Kawakitaさんの定義は、本当に空理・空論として批判されるべきものなのかということを考えてみたい。

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by ksyuumei | 2006-03-25 10:48 | 論理