2006年 03月 22日 ( 2 )

一流の学者の条件

一流の学者について、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、「哲学的な科学者」と言うことを語ったことがあった。ここで言う「哲学的」とは、板倉さんが語る意味での「哲学的」と言うことであって、普通一般に辞書的な意味で語られている「哲学的」ではない。

板倉さんは、「科学」というものを「科」の学問として定義する。それは狭い範囲での法則性を求めるものだが、それが狭い「科」に限定されることによって、法則性の正しさが判定されると考えるのだ。もしも、広い範囲にわたって法則性を求めると、例外が多すぎてとても法則性と呼べるものではなくなってしまう。

板倉さんが語る「科学」とは、ある条件の下で「真理」が確定されるというようなものだ。その条件が厳密に求められていれば、それは「科学」としての信頼性が高いと判断される。

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by ksyuumei | 2006-03-22 15:46 | 雑文

二流問題の考察--簑田胸喜の場合(その3)

「蓑田胸喜の時代」に記述された資料の考察を続けようと思う。まずは、北一輝に対する批判があるので、ここから簑田の具体的思想が読みとれる。僕は北一輝についてはよく知らないのだが、一流の匂いのする人間だと感じる。その一流かも知れない人間に噛みついている簑田の批判が、真っ当な本質を突いているものなら、簑田も同じ一流だと言えるかも知れない。しかし、それが的はずれなものだった場合、そこから思想の二流性も結論される。


「一、『改造』思想は『破壊』思想である

社会は『改造』し得るであろうか?社会の原素は『人間』である。人体または人心は『改造』し得るであろうか?改造を要するものは道具機械の類と雖も積極的価値を有せざるものであるが、生命精神にとっては『改造』はそれ自体その生機の破壊の破壊であり、価値の滅却である。雑誌『改造』は十五年の歴史を似て日本の国家社会に何の積極的建設的貢献をなし得たか?破壊!唯破壊!である、それ以外の何事もなさなかった。『改造』思想は『破壊』思想であり、社会『改造』は社会『破壊』である---ということは理論ではなく事実である。『改造』を要する社会は『改造』の要なき、既にその価値なき社会であるといおう。北一輝氏の『日本改造法案大綱』は『改造』の一語にその消極的価値を自ら不随意に露呈しているのである。」

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by ksyuumei | 2006-03-22 11:46 | 雑文