2006年 01月 28日 ( 2 )

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 4

運動というものを、ゼノンはどのような理由から否定しなければいけないものと考えたのだろうか。事実として、そのようなことをしたと言うことを確認するのでなく、ゼノンの基本的な考えから、どのように運動の否定が論理的に導かれるのかということを考えてみたい。

まず考えられるのは、ゼノンのパラドックスを帰謬法として捉える解釈だ。運動が存在すると考えると、論理的にパラドックスのような矛盾が導かれる。だから、運動は存在しないと考えられる。このような流れだ。しかし、これは運動の否定の証明ではあるが、この証明が見出されたから運動を否定したというのは、原因と結果が逆であるように感じる。

まず運動の否定という考えが生まれ、その考えが正しいことを証明するためにパラドックスを考えたという時間的な順番になるのではないだろうか。パラドックスは証明のための方法であって、これを思いついたから運動を否定するという考えが生まれたというのではないようだ。

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by ksyuumei | 2006-01-28 22:51 | 論理

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 3

「運動」の直接表現である「動詞」というものを考えてみたい。振り子の運動を考えるとき、鉛直方向の最下点の状況を考えると、そこに「ある」と静止的に捉えると矛盾を生じ、「通過する」と言えば少しも矛盾が生じないと言うことがあった。「運動」の動的属性をそのまま表現する「通過する」という言葉なら、運動を表現するときに矛盾が生じないと言うわけだ。

「ある」というのも動詞の一つなのだが、これは動詞でありながら静的属性を表現しているという特殊な動詞に感じる。だから、この特殊な動詞を考えるのは後回しにして、本当に動きがあると思える状況を表現している一般の動詞について考えてみようと思う。

三浦つとむさんは、動詞の本質を、変化する属性の表現として捉えた。何かが動いているように見える現象というのは、そこに必ず変化という属性を発見出来ると言うことだろうか。変化する何かが見つかると言うことだろうか。まずは人間が動作をする動詞で考えてみよう。

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by ksyuumei | 2006-01-28 10:46 | 論理