2006年 01月 24日 ( 1 )

「アキレスと亀」のパラドックス性は、認識の中にあるのか、表現の中にあるのか

シカゴ・ブルースさんが「濫觴(らんしょう)」と言う掲示板の中(196,197の書き込み)で、「アキレスと亀」のパラドックスに言及してくれている。時間というものに対する「主観性」と「客観性」がパラドックスに大きな影響を与えているというのは僕も感じていた。

シカゴ・ブルースさんは、「運動は物質の存在様式であり物質の内的属性である(エンゲルス『自然の弁証法』)」と書いている。このことを僕なりに解釈してみると、静止さえも「変化0(ゼロ)」の運動として捉えることによって、すべての存在様式を含む表現が出来上がるので、「運動は物質の存在様式である」と言うことが主張出来るのではないかと感じる。

ゼロというのは、現実には何もないと言うことを表現する言葉だが、数学的には、「1個ある」「2個ある」という言い方と同等な資格で、「0個ある」という言い方もする。そして、この言い方は「何もない」と言うことと意味は同じものとして受け取る。つまり「0個ある」という言い方は、すべてのものが「ある」という言葉で統一されて表現されるように工夫されている言葉なのだ。「0(ゼロ)」は、「ないのにある」という矛盾した表現になっている。現実には、何もないという現象を指しているだけなので、現実的な矛盾は何もないにもかかわらず表現の上では矛盾している。

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by ksyuumei | 2006-01-24 09:46 | 論理