事実(知識)の面白さと理論(考察)の面白さ

森達也さんの『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)を読んで以来、またかつてのプロレス熱が甦って、今プロレスに関する本をいくつか読んでいる。主に読んでいるのは、新日本プロレスでレフェリーとして活躍したミスター高橋さんが書いた一連の本だ。僕がプロレスファンであったということもあり、しかもかつて夢中になった頃のプロレスについて書いてあるので、高橋さんの本はどれも面白く読んだ。

森さんの本の面白さを考えたときもそう思ったのだが、事実の面白さを書いた本はとても分かりやすい。そこには自分の知らないことが書いてあり、しかも知りたいと思うことが書いてあるので、それを知ること自体が楽しいという、知識を得ることの楽しさを感じることが出来る。それは知らなかったことを知るだけであるから、そのことについて深く考えるという複雑さがなく、そのためにとても分かりやすい。

僕は数理論理学などをやっていたので、かなり理屈っぽく考えるのも好きだ。そのときの楽しさは、何かもやもやしていた頭の中が、すっきりと見通しよく晴れていくように見えるところに楽しさがあった。事実を知ることによる分かりやすい楽しさもあれば、複雑な現実世界のつながりを一つずつほぐしていって、世界の全体像がいっぺんに見えてくるような瞬間を感じる、考えることの楽しさというものもある。この二つの楽しさは質が違うものだが、強く結びついている部分もあるのではないかという気がしている。




僕は宮台真司氏に大きな信頼を寄せている。その宮台氏のパートナーとしてマル激をやっている神保氏にも、宮台氏から派生するような信頼感を感じている。従って、この二人がマル激で語ることは、ほとんど疑いなく「事実」だろうという前提で聞いている。本来なら、「事実」であることを確認するには、それを自分が体験したり、何らかの物的証拠を見つけて確信を得る必要があるだろうと思う。その言葉を聞いただけで信頼するというのは、ある意味では危険なことでもある。

だが、それが本当に信頼の置ける人ならば、その危険な賭をおかしてでも信頼を寄せることがあるだろう。逆に言えば、それほど信頼を置いていない人が語ることは、その人がたとえ当事者であろうとも、「本当だろうか?」というような疑問を持つことになる。そのような疑問を感じるときは、事実を知ることによる楽しさというのはあまり感じない。むしろ、疑問がもやもやしたものとして心に残り、楽しさよりも欲求不満のようなものが残る。

森さんと高橋さんにも、面白く読んだ後にはかなり信頼感が増したのだけれど、まだ宮台氏ほどの絶大な信頼感はない。しかし、彼らが書くことのほとんどは、たぶん事実(論理的にいえば真理)だろうと感じている。それは、森さんがとてもよく調査しているかとか、高橋さんが当事者だったからということから来る信頼感もあるが、それ以上にその考察に納得がいって、理論的な意味での真理の確信が、その語ることが事実であることを確信させるというような感じがしている。

元々宮台氏に絶大な信頼を置いたのもその理論的展開に見事さを感じたからだった。事実の面白さを感じさせてくれる人というのは、同時にその考察の展開の見事さに惹きつけられて、その語ることが確かに事実に違いないと思えるような語り方をしている人ではないかと感じられる。ただ単に事実を語っているだけの人は、その人から見れば確かにそう見えたのだろうけれど、それは一面的な見方かもしれないし、錯覚かもしれないと感じてしまう部分がある。事実の面白さは、このようなことがあったのだと語るだけでは出てこない。それが確かに事実だったと信じられるような語り方をしたときに、初めて面白さが出てくるのではないかと思う。

高橋さんの本によれば、プロレスの試合というのは、基本的にマッチメイカーと呼ばれる人間がストーリーを作り、そのストーリーをいかに感動的に観客に訴えかける試合が出来るかという表現の面でプロレスラーのうまさが評価されるという。これは、今では知っている人も多く、ありふれた事実だろうが、かつての僕はプロレスの真剣さをかなり熱く信じていた。小中学生の頃にアントニオ猪木に夢中になったときは、猪木の強さとかっこよさに心の底から感激していたものだ。このときには、プロレスにストーリーがあるなどということは全く考えていなかった。

高校生になったときも、小中学生の頃のようにベタに信じていたという気分は薄れていたものの、プロレスは物語ではなくて試合をしているのだという気分でそれを見ていた。だが大人になって、いろいろと論理的な考察が出来るようになると、どうも子供の時に感じていたようなものとプロレスは違うらしいということが少しずつ分かるようになった。いや、分かると言うよりも感じられてきたと言った方がいいだろうか。

それは、プロレスの試合があまりにも美しくかっこいいからだ。本当の勝負を争う試合では、あれだけかっこよく美しく技は決まらない。また勝負に勝つのは時の運であり、強いものが必ず勝つとは限らないということも分かってきた。それに対して、プロレスでは勝って欲しいと思う選手(僕の場合はアントニオ猪木)が必ず勝つという結果が出る。これは物語以外の何ものでもない。

大人になってこのようなからくりが分かってくると、なんだプロレスなんてインチキなのかと思ってしまう人がいるかもしれない。だが僕の場合はそうは思わなかった。そのときは言葉でうまく表現できなかったが、僕はやはりプロレスが好きで、プロレスの面白さを感じていた自分を否定したくなかったのだ。その気持ちを高橋さんの本が実にうまく説明してくれた。

プロレスをスポーツだと前提するから、それに筋書きがあることがインチキのように見えてしまう。しかし、プロレスがスポーツではなく、エンタテインメントという観客を喜ばせるショーだと捉えるなら、それに筋書きがあるのはむしろ当然で、それを最もうまく演じるプロレスラーこそが最高のプロレスラーだという高橋さんの主張には共感するものがあった。

僕は今の格闘技路線というものにあまり面白さを感じない。かつてUWFとかパンクラス、リングスなどで格闘技色の濃いプロレスが展開されたときも、僕はそれにあまり興味が持てなかった。面白みを感じなかったのだ。自分がそのスポーツの経験者だったり、細かい知識を持っていれば面白さを感じたかもしれないが、素人として観客になった場合、「どこが面白いんだ」という感じを抱いていた。高橋さんもそう語っていたので、その部分にも共感したものだ。

プロレスの面白さは芝居の面白さに通じる。プロレスラーは一人のアーティストだと言ってもいいだろうと思っている。そういうプロレスの面白さは、そこに演出がなかったら面白さなど引き出せるものではない。もしプロレスがスポーツのような真剣勝負になったらどうなるだろうか。よほど実力に差がなければ、その技が鮮やかに決まることはない。だが実力がかけ離れた二人の勝負に誰が感動するだろうか。それでは、実力伯仲した二人の格闘家が勝負をしたらどうなるだろうか。それは、必殺技が決まってしまえばそこで試合が終わってしまうので、どうしてもディフェンスに徹するような試合になるだろう。

昨日のテレビでは、アントニオ猪木対モハメッド・アリという、かつての異種格闘技戦の映像が見られた。これは、高橋さんだけでなく、多くの人が真剣勝負だったと言っているものだ。僕はそれは事実だと思う。それは、この試合が、見ていて退屈きわまりないものであり、素人の観衆が見るショーとしてはつまらないものだったからだ。「世紀の凡戦」と形容されたのは、観客を興奮させるプロレスではなかったという評価だろうと思う。だが、これは真剣勝負であれば全く当たり前のことではないかと思う。実力が伯仲していたために、あっさりと勝負がつくことなく、猪木もアリも二人ともディフェンスに徹する試合をするしかなかったのだと思う。究極の真剣勝負は退屈なつまらない試合になる。これは事実ではないかと思う。

逆に、観客を興奮させた柔道の金メダリストのウィリエム・ルスカとの試合は、高橋さんによれば綿密に計算された筋書きのあるプロレスだったという。これも僕はその通りだろうと信じている。プロレスだったからこそあれだけ面白く、心が躍るような感激を味わえたのだと思う。また、筋書きのある芝居を、あれだけリアリティーがあるように演じられるアントニオ猪木というプロレスラーの非凡さを高橋さんも絶賛しているが、僕もそう思う。かつて子供の頃に夢中になったことを、だまされたなんて感じてはいない。むしろなんとすばらしいうまさを持ったプロレスラーだろうかと、改めて惚れ直したいくらいだ。

僕は、世間知らずの子供だった頃にプロレスを本気で信じて感激したことをとてもありがたいと思っている。いい時代に子供時代を過ごしたものだと思う。子供は世界が狭いから、ある意味では嘘にだまされて、現実の本当の側面を見落とすことがあるが、それを見ないことで却ってプラスになることがあるのではないかという気がしている。本当の面というのは、どうしても汚い面を持っている。その汚い面が現実だということをあまりにも早く知るのは、大人としてそれを冷静に受け止める素地のない子供にはゆがんだ現実像を植え付けてしまうのではないだろうか。

理想と現実について、かつて仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、「理想を持ちつつ妥協する」という言葉で語っていた。妥協というのは、理想を持ち続けるためにするものであって、理想なしに妥協をするのであれば、それは妥協ではなく、本当に利益だけしか考えないエゴイストになってしまう。理想というのは、それが幻想であろうと、一度は自分でそれをベタに信じて熱く感動することが必要だ。それはやがては破れてしまうものになるのだが、理想なしにただニヒルに現実を捉えているだけの人間は、それから生じるエゴイズムから逃れることが出来なくなる。

プロレスがスポーツを装ったエンタテインメントであるというのは、一つのフェイク(嘘)でありごまかしと言っていいだろう。しかし、それは楽しい嘘であり、大人になってそれに気づいたからといってその楽しさが減るものでもない。子供の頃にそれをベタに信じて熱を入れてそれに夢中になれれば、むしろ理想というものを信じる基礎にさえなるかもしれない。高橋さんが語ることには、事実の面白さとともにそのような考察に対する共感を感じる楽しさがある。納得してその考えを受け入れることが出来るのだ。

自分では経験できないこと、見たことがないことを誰かが語っているとき、その語っていることが本当だ(事実だ)と思えるのは、そのことを考察したときの語り方に説得力があり共感するときではないかと思う。プロレスの知識について教えてくれる本はたくさんある。マニアックな知識に面白さを感じることもしばしばだ。しかし、そのような知識の面白さは、たぶんすぐに忘れる。だが、高橋さんが語ることの面白さは、なるほどその通りだなと思えることは、印象深く事実としてもきっといつまでも覚えているのではないかと思う。高橋さんの文章からは、高橋さんに対する信頼感というものもだんだん大きくなるのを感じる。信頼できる人間をどうやって見分けるかということを考えるのにも役立つのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2009-02-09 00:16 | 読書


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