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『14歳からの社会学』 本当にみんな仲良しなのか?

宮台真司氏が『14歳からの社会学』という本を書いた。この本は、14歳でも読めるように、知識と経験に乏しい人でもその内容が分かるように配慮されて書いてある。一つの社会学入門書と言っていいだろう。子供のための入門書は、例えば「14歳のための○○」というような表題になっているものもある。しかし、宮台氏の本では「ための」ではなく「からの」という表現になっている。これには深い意味があるのではないかと感じる。

社会学というのは、今の大人たちも学校で習ったことがない。しかし、これまでの大人は、社会に出て働いたりすれば、それなりに社会というものがどういうものであるかを経験で知ることが出来た。学校で習わなくとも、学校を卒業した後に、社会のことは社会で経験することによって学ぶことが出来た。それが今ではたいへん難しい時代になっているのではないかと思う。

今日は成人式であり、日本では二十歳を過ぎれば一応大人として認めてもらえる。それは、大人としての義務を果たさなければならないというものがいくつか発生することでもあり、大人として行使できる権利を手にすることが出来ることでもある。かつての大人たちは、この儀式を通過することで大人としての自覚を持つことも出来たが、今はそれは難しい。子供たちはどうやって大人になればいいかが分からなくなっている。社会が安定していた時代は、ある種の通過儀礼を経ることによって誰もが大人になった。しかし、複雑化し流動化した現在は、どうなれば大人になれるのかが分からなくなっている。

大人になるということは、おそらく社会というものが理解できたときにそのような自覚が生まれてくるのではないかと思う。宮台氏が「14歳からの」という限定付きの社会学を語っているのは、これからの時代は、社会を理論的に捉えなければ理解が難しくなったのだということを語っているのではないかと思う。14歳からそれを意識することで、やがて二十歳になり大人になるときに、自信を持って大人だと言えるような何かがつかめるのではないかと思う。




この「14歳からの」社会学は、大人にとっても役に立つものだと思う。大人は、かつての社会が安定して持続していれば、その中で大人になったものとして、社会の中枢を担うことが出来ただろう。しかし、今はその社会の安定性が失われてしまったように感じる。このような社会では、自分の経験だけでは社会のごく狭い範囲の性質しか捉え切れていない。大人が、社会のことに対して必ずしも正しい判断と指針を出せなくなってきている。経験だけでは社会のことが分からない時代になった。それを補って乗り越えるには、宮台氏が語るように、社会を理論的に捉える視点を知らなければならないのではないかと思う。

社会を理論的に捉えるというのは、社会の全体像を捉える、つまり抽象的な対象である社会を捉えるということを意味する。自分の経験や感覚から得られる「社会像」に対して、それが一般的なもの、多くの人が抱いているイメージになっているかどうかを考えて、それを正しく捉えることを意味する。自分の経験や思いは特殊なもので、自分のような人間であればそう感じたり考えたりするかもしれないけれど、世の中の多くの人はそう考えてはいないかもしれない。そのような判断を教えてくれるのが社会を理論的に捉えるということになるだろう。

第1章のテーマは、「自分と他人」というものになっている。副題として「「みんな仲よし」じゃ生きられない」という言葉がつけられている。かつての安定した社会を生きてきた大人たち、特に昭和30年から40年代くらいの日本を知っている大人たちは、その時代が人情に篤い時代であり、ご近所さんは「みんな仲よし」であり、ある場合には全く見知らぬ他人でさえもすぐに「仲よし」になってしまう時代であったことを知っているだろう。

僕は昭和31年の生まれだが、子供の時に迷子になったことをよく覚えている。泣きながら歩いていたら、ガソリンスタンドのそばを通り過ぎたときに声をかけられた。若いトラックの運転手が、かわいそうに思ってくれたのだろう。どこに住んでいるかを聞いてくれて、僕の家のそばの学校までトラックで送ってくれた。僕は子供の頃は東京の渋谷区の恵比寿に住んでいたけれど、そのような地域でさえもこのような人情をかけてもらえる経験があった。

このような時代は、「みんな仲よし」にしましょうと指導されなくても、子供たちはみんな仲良しだったし、大人たちも人情に篤かった。だが今はそんな時代ではないだろう。いつから変わってしまったのかは、経験だけでは分からない。宮台氏が教えてくれる「近代成熟期」という指標を理解して初めて、それがいつから変わってきたのかということが分かる。複雑化した現代社会は、理論的考察なしに経験や直感で捉えることは出来ない。

「みんな仲よし」というのは、かつてはそれで幸せだったし、いがみ合ったり無関心であったりするよりも、仲良しで温かい思いやりのある社会の方がいいと思えるので、この目標が間違っていると考える人は少ないのではないだろうか。しかし、宮台氏は「みんな仲よし」では今の社会は生きていけないのだと指摘する。それは間違いなのだと言う。それはどうしてだろうか。それは、社会を理論的に捉えなければ、その正しさを理解することが難しいのではないだろうか。

「みんな仲よし」は、ちょっと考えるといいことのように思えるけれど、もう少し深くこのことを見てみると「みんな」という概念が気になってくる。この「みんな」は、かつては社会で生きている人の大半を含むものとして日本人は意識できていた。だから、ある意味では他人であっても、何となく仲間として「みんな」の中に入れてくれていたので、それで親切にしてくれたりして「仲よし」になっていた。それが今の時代は、この「みんな」という範囲が共通の理解が無くなってしまったという。宮台氏は次のように語っている。


「今の社会では「みんな」という言葉が、誰から誰までを指すのかイメージしにくくなっている。「みんな」の顔が見えにくくなっているのに、昔と同じように「みんな仲よし」と言われたって、実態とかけ離れているから、タテマエに聞こえてしまうんだ。」


今の社会では価値観が多様化し、かつては「みんな」の中に入っていた人たちも、今ではもしかしたら価値観の違うものとして対立する相手になりかねない。そんな相手とも「仲よし」にしようということになったら、利害関係の面で損をすることが多くなるだろう。それでも、自分が損をしてでも相手への信頼を持つ立派な人だということで評価してもらえればいいのだが、今の時代では、損をすることは立派なことではなく馬鹿だと思われてしまうのではないだろうか。仲よくできない相手はたくさんいるのに、「みんな仲よし」にしたら自分はいつまでも損をする人間になってしまう。そのような時代は、「みんな仲よし」がタテマエのように聞こえても仕方がないだろう。

「みんな」というのは、いったいどの範囲の人間を指すのか、という問いは社会に対する理論的な反省を抜きにしては出てこないのではないだろうか。経験と感覚で社会を判断していれば、「みんな」の範囲は自明のものであり、「仲間」と感じられる人が「みんな」になるだろう。そうだ、かつての日本でも「仲間」を外れてしまえば「みんな」でなくなっていたのだが、「仲間」の範囲がとても広かったために、普通の日本人はそのことに気づかないでいられたのだろう。それに気づくには、理論的な考察が必要だったのだ。

宮台氏は、現代の若者たちの心情を「仲間以外は皆風景」という言葉で表現したが、自分たちの狭い範囲の仲間以外は、全く人間として感じられないとすれば、これはきわめて狭い「みんな」の範囲ということになるだろう。逆に、「みんな」は日本人だけでなく、世界に住んでいる人間が全部「みんな」だということになれば、これは非常に広い範囲の「みんな」になる。グローバル化ということの理解には、そのような理解での「みんな」という概念があるとも宮台氏は指摘する。

「みんな」の範囲は日々変化している。宮台氏は、「どんなくくりを考えても、そこから出たり入ったりする人間が増えた。そこに所属するからといって、その人たちがそのまま「みんな」だとは言えない」と指摘している。「みんな仲よし」という目標は、このような時代背景の時には困難であり、間違いであると言えるだろう。

「みんな仲よし」が信じられていた時代は、社会は安定していて単純だったので、社会の中で「仲よし」で生きていられれればそれなりに幸せになれた。しかしそうでない時代には、社会の中で経験に頼って生きているだけではなかなか幸せになれない。社会を理論的に考察する社会学では、幸せに生きるということも理論的に捉えることが出来る。宮台氏は、幸せに生きるための条件として「自由」と「尊厳(自尊心・自己価値)」という二つをあげている。

「自由」はそれを論じようと思えば、これだけでたいへんな問題だが、宮台氏は<選択肢があること>と<選択肢を適切に選ぶ能力があること>の二つを「自由」であることの判断基準としている。そう捉えるのも理論的なとらえ方だろう。

「尊厳」の方は、自分を現在のままの自分として肯定的に受け止めることが出来る何ものかとして考えられている。自分は、もちろん理想とはほど遠い存在として自分には捉えられているだろう。かなりうぬぼれの強い人間でも、自分がすばらしい人間であると手放しで認めている人はいないだろう。たいていは何かが足りない、未熟な人間として自分を捉えているのではないかと思う。しかし、未熟で能力が不足している自分であっても、自分が人間として生きているというのは、他の人間と変わりないものであり、軽蔑されるようなところがない限りは、自分は今のままでもいいのだと肯定的に認めてやれるような基礎が自分の中にあるとき、それを宮台氏は「尊厳」と呼んでいるようだ。

「尊厳」というのは、社会の中で他者から承認されることによって自分の中に育てられていくという。だから「仲よくできない他者たちとどうつきあうかについて、考えていかなくちゃいけない」という指摘を宮台氏はしている。これも経験から学ぶには難しい事柄だ。だが、理論的に考えればこれは次のように簡単に解答される。宮台氏は、


「自分に必要な人間とだけ仲良くすればいい。自分に必要でない人間とは、「適当につきあえば」いいだけの話だよ。」


と語る。これなどは、経験からこのような教訓を得ている人は多いと思われるが、このようにあっさりと言えるのは、理論的なとらえ方をしている宮台氏ならではの一般化ではないかと思う。社会を特に意識しなくても幸せに生きられた時代には、社会での幸せを体現するロールモデルがいた。それが誰にも目標となった。しかしそれが失われた今は、宮台氏が次に語るような問題を考えることで幸せを理論的に考察する道が開けるのではないかと思う。


「競争を勝ち抜いて「一流」大学や「一流」企業に入っても、会社を興して成功して金持ちになっても、自分の人生が「承認」から見放されているのであれば、いずれ君は自分が寂しく死んでいく人間であることに気づかされるだろう。それが果たして幸せな人生だろうか。」
by ksyuumei | 2009-01-12 22:07 | 宮台真司


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