構造というのは、対象の全体性を把握しなければそれが見えてこない。対象の一部をどれほど細かく観察しても、そこから全体を引き出すことが出来ない。そこで考えられている全体は、まだ観察していない部分を想像している、仮説的な思考になってしまうだろう。その意味で、構造の把握はいつでも思い込みから来る間違いを含んでいる。
数学的な構造は、その思い込みからの間違いが排除できる唯一の構造だ。それは、数学的対象が、現実に存在しているものではないということから来ている。現実に存在しているものは、我々にその一面しか見せていない。必ず観察から漏れる面がある。それはたいていは末梢的なものとして捨象されるのだが、時にそれが論理的判断に重要な位置を占めることがある。そのような漏れがあった部分は、後に理論の間違いを決定づけるものになるだろう。 数学においては、見えない面を最初から意図的に排除するような抽象の仕方をする。それは排除されてしまったので、後の観察で、見落としに気づくというものではなくなる。羽仁進さんのエピソードで、馬が1頭ずつ2つの方向から現れたとき、馬は何頭になるか、という問いを子供の時に考えたというものがあった。羽仁さんは動物が好きで、馬という動物がとても気持ちの繊細な動物だと思っていた。気が合わない相手と一緒にいるのが難しいので、1頭ずつよってきても、必ずしも2頭になるとは限らず、1頭がどこかに行ってしまうかもしれないし、2頭ともいなくなってしまうかもしれないということを想像していた。この想像はとても人間的で文学的(芸術的)にはすばらしい。しかし数学的には間違いだ。数学は、このような具体性をすべて捨象して、しかも捨象した具体性を後の観察でもう一度引き入れることをしない。「1+1」は、普通の意味で抽象された場合(10進法というよく知られた数の記法の上での計算ということ)、誰が考えても「2」になるというのが数学の抽象になる。 このような数学の特性は、構造というものを単純にし、構造の把握においては数学が一番やさしいという感じにさせる。具体的な現実の中に構造を見るときは、何が捨てられ(捨象され)何に注目しているか(抽象しているか)に常に気をつけていなければならない。 さて、数学の構造を見るのに、例として一筆書きの図形の構造を考えてみようと思う。ある図形が一筆書き出来るかどうかを見るというのは、それが線によって描画されているという前提がいる。線ではなく点で描画されていれば、それは始めから一筆書きが出来るかどうかという対象にならない。従って、構造の第一歩は、考察する対象の全体を含む集合が決定できるかどうかということにかかわっている。つまり 1 対象の限定(集合的に制限が出来る) ということがまず重要だ。制限が出来ない、あらゆるものを対象にすると、宮台氏が語る「世界」というものになる。ここにはすべての対象が含まれる。それは混沌とした集まりであり、そこに構造を見出すことは出来ない。構造を見出すには対象の限定が必要だ。一筆書きの数学の場合は、線で描かれた図形ということになる。 線で描かれた図形は、考察できる可能性をすべて考えるなら無限にたくさんあると考えられる。この無限はいっぺんに把握することは出来ない。人間が考察の対象に出来るのは、有限の範囲に限られる。そこで構造の把握のために、無限に多くの対象を有限の範囲に収まるような工夫をする。それが抽象というものになる。 図形の外形的な「形」には無限の多様性があるので、これを対象にしてしまうと有限化は難しい。そこで「形」の具体性を捨てて、多くのものをひとまとまりに出来るような性質で線で描画された図形を分けてみる。それは「点」と「線」と呼ばれるような性質を持ったものに分けることでなされる。これなら、分けた(類別した)あとの対象は2つになる。点という性質が同じになる図形をひとまとめにし、線という性質が同じになる図形をひとまとめにする。この性質が同じということは、数学的には「同値」という言葉でも表現され、分類することを「同値類」に分けるともいわれる。これが構造の把握で次に重要なもので 2 対象を抽象化して有限のものにする。 と言えるだろうか。 さて、点と線という有限な対象に分けられたのだから、これで構造が見出せるかというと、これだけではまだ難しい。点と線は実は分かちがたく結びついていて、点は、線の両端としてしか存在せず、線は点と点を結んだものとしてしか存在しない。両者が融合しているために構造そのものが浮かび上がってこない。また、そのために、同じ点であってもそこから出ている線の「形」が違うため、点に具体性が残り抽象化が徹底していない。この具体性が、構造の把握において見えない部分を作り観察による誤謬の可能性をもたらす。対象をそれぞれ独立したものとして把握することが必要になる。つまり 3 抽象化した対象の具体的な結びつきを捨てて、それぞれが独立した対象になるような抽象の仕方をする。 と言える。 そこで点の具体性をさらに捨てるために、点から何本の線が出ているかということを問題にする。それは、具体的な本数を数えてしまえば、無限の可能性を引きずってしまうので、偶数の線が出ている「偶点」か、奇数の線が出ている「奇点」かという違いだけに注目して抽象化する。こうすることによって対象がいよいよ有限個の全体になってくる。 そして、手順としては面倒なのだが、このように独立した対象にした後に、独立した対象の間に成立するような「関係」を見出す。多くの場合、数学ではこれは関数として見えてくる。これは、具体的で自然に張り付いていた結びつき(対応関係)ではなく、その自然性を引きはがした後に設定したものなので、見落とすことによる誤謬から免れる構造の視点になる。まとめると 4 独立した対象の間に対応関係(関数)を設定し、それを「構造」と呼ぶ。 ということになるだろうか。 点を「偶点」と「奇点」に分けることが出来ると、そこに次のような構造を見ることが出来る。そこに集まる線を、入ってくる線と出て行く線というふうに、線を2種類に分類して構造を見る。 偶点 … 入ってくる線と出ていく線が必ずペアになるので、線はそこにとどまることが出来ない。つまりそこは「通過点」になる。 奇点 … 通過するような、入ってくる線と出て行く線のペアの他に、1本だけ余分な線が残る。この余分な線は、一方的に出ていくだけの線になるか、一方的に入るだけの線になる。つまりこの点は「出発点」になるか「終点」になるかのどちらかである。 ここで「偶点」には、「通過点」というものが対応し、「奇点」には「出発点」あるいは「終点」というものが対応して関数関係を作っている。 この構造は、無限に多い一筆書きの図形を観察することによって得たものではない。抽象化された点と線を、「偶点」「奇点」「入ってくる線」「出て行く線」というふうに有限の対象にして考察して得た論理的な帰結である。構造の把握というのは、このような仕方をしなければ、おそらく現実の制限から錯覚をしたり、間違えて把握したりするだろう。 さて、一筆書きの図形の集合(「世界」)が、上のような構造を持っていれば、どんな図形が一筆書きが出来るかを見るのはやさしい。それは構造から直接に帰結される論理的なものだからだ。まず、 ・「奇点」が1つもない図形は、すべての点が通過点であるから、どこから書き始めようとすべての点を通過して一筆書きが出来る。極端なことをいえば、線の途中から書き始めても良い。 ・「奇点」が2つある図形では、その1つが「出発点」になり、もう一つが「終点」になるという描き方で一筆書きが出来る。 ・「奇点」が4つ以上ある図形では、「出発点」になる点がどうしても2つ以上できてしまうので、それは一筆では描けない.「出発点」の数だけ筆を置き直さなければならない。このような図形は一筆書きが出来ないと判断される。 上の判断で、「奇点」が1つの場合とか、3つの場合とかが記述されていないのに疑問を感じた人はいるだろうか。それは論理的にあり得ないので書いていない。「奇点」が1つになるような図形というのは、「出発点」だけがあって「終点」がない図形になってしまう。一筆書きを考察する図形は、点が数えられる有限の範囲の図形であるから、いつまでも「終点」に到着しない図形などあり得ない。「出発点」があるのなら、どこかに「終点」が存在しなければならない。だから、「奇点」はいつでも2個、4個、6個…というように、偶数個なければならない。これも一筆書きの図形の集合が持つ構造の1つになっている。 構造の把握の仕方をまとめてみると次のように考えられるだろうか。 1 対象の限定(集合的に制限が出来る) 2 対象を抽象化して有限のものにする。 3 抽象化した対象の具体的な結びつきを捨てて、それぞれが独立した対象になるような抽象の仕方をする。 4 独立した対象の間に対応関係(関数)を設定し、それを「構造」と呼ぶ。 この4つの方法は、一筆書きの図形の構造を見出すことを反省して求めたものだ。他の構造を見出すときにも、この4つの方法が役に立つかどうかを考えてみたいと思う。 一筆書きの数学は数学史上の偉大な数学者オイラーが見出したものだが、それは今の時代では、割合に簡単に理解できる数学でもあるだろう。最初に発見されるには、オイラーのような天才性を必要としたが、それをあとから理解するには、かなり平凡な数学的素養があれば十分だ。これは、全体性の把握という構造の把握が、その全体性を最初に見出すことは難しく、それが一度見出されれば比較的簡単に誰にでも見えてくるということなのだろう。 数学の場合は、オイラーの時代に見出された一筆書きの数学の構造は、何年たっても変わることがない。しかし、現実の構造は、現実の複雑性を反映して重要な部分が入れ替わり、かつては抽象された構造が、今では存在しない捨象されるものになっている可能性がある。マルクスが語った構造にも、もしかしたらそういうものがあるかもしれない。数学の構造の把握の仕方が、現実の構造の把握にも役立つものになるように、現実と数学との違いを深く考えて、現実の構造についても考えてみたいと思う。
by ksyuumei
| 2008-12-02 10:00
| 方法論
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