私たちを幽閉している檻としての言語

内田樹さんが『こんな日本で良かったね』で語る次のテーマは「言葉の力」というものだ。ここにはどのような構造が語られているのか。それはこのエントリーの表題にした「檻」で比喩されるような構造だ。「言葉の力」のイメージが、どのようにして「檻」という構造を見せてくれるのだろうか。

まずは、「言葉の力」という言葉に秘められた様々の意味を考えてみよう。内田さんは、これを学習指導要領の基本理念として提出されていることからまず話を始めている。「言葉の力」こそが「学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方」とされている。これは、国際学力調査の結果として、日本の子供の学力の「二極化」が問題にされたことから、学力の低下をもたらした原因として「言葉の力」が不足しているという発想がされたようだ。

特に低下した学力は、読解力と記述式問題で、この学力調査の結果は非常に悪かったようだ。この問題を解決するために、「言葉や体験などの学習や生活の基礎作りを重視する「言葉の力」をすべての教育活動の基本に置くことになった」という。このことから想像される「言葉の力」の内容は、単に言葉を記憶して、その記憶が正確に早く引き出せるということではない方向を目指しているように感じる。言葉としての記憶ではなく、その言葉が実際の自分の体験や感じ方に基礎を持ち、自分の体の一部のように使えるようになるということが、「言葉の力」を身につけたということになる、という考え方のように思う。そうなれば、読解や記述も自信を持って出来そうだというような予想も立つ。




このように考えた「言葉の力」には、内田さんは一定の評価を与えている。次のような記述が見られるからだ。


「具体的には、古典の音読・暗記や要約力の促進、数量的なデータを解釈してグラフ化したり、仮説を立てて実験・評価したりする力、感性を高めて思考・判断し表現する力など、国語力の育成と関連づけた論理的思考力や表現力の重要性を強調している。
 文科省がようやく「当たり前」のことに気づいたようである。
 これに気づくのに信じられないほどの時間がかかるというところに中央省庁の絶望的な非効率性は存するが、それでもお上が「まともな結論」にたどり着いたことを一国民として多としたい。」


「言葉の力」の意味が、このように考えたものにとどまっていれば、内田さんの論理展開もここで終わっていたかもしれないが、朝日新聞が語る「言葉のチカラ」なるものが「力(=チカラ)」という言葉に全く異なる意味を与えていることを内田さんは批判的に語る。それは、言語に対する基本的なとらえ方を間違っているのではないかという批判だ。まずは、朝日新聞の主張を見てみよう。それは次のように書かれている。


「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」


この言葉に対しては、「コラムニスト宣言」という小田島隆さんのエントリーが語る文をを引用して内田さんは、「「言葉のチカラ」というワーディングをよしとする言語感覚の貧しさ」を指摘している。

小田島さんによれば、この朝日の宣言は、「言葉のチカラ」というものを盲信していることを宣言しているものと読めるという。全くその通りだと思う。「「感情的で、残酷で、ときに無力」 なものを、簡単に信じて良いのか?」という指摘には大いに共感する。そんなものが本物のジャーナリストであるわけがないだろう、と言いたくなる。むしろ、言葉の無力をかみしめて、言葉にもっと力を持たせたいと思うのが本物のジャーナリストではないかと思う。本多勝一さんなどは、どれほど正しいと思えるものを知らせ、しかも多くの人がそれを読んでいても、社会そのものが少しも変わっていかないことにいつも無力感を感じていたようだ。社会は、正しさよりもむしろ扇動にすぐ動かされてしまう。それは「言葉のチカラ」ではなく「言葉の無力」ではないのか。

さらに、この宣言は「言語道具観」というイデオロギーをそこに見させるものだということを内田さんは指摘する。ここに言語の持つ「構造」というものが深く関係してくる。内田さんが語る「構造」は、ここではどのような姿を見せてくれるのだろうか。

言語が道具であるというとき、この道具は何かを伝達する道具として考えられている。この道具は、人間の心的内容を伝える道具になる。何かというのは、時には意志・意思や希望であったり、感情や主張・命令であったりするだろう。人間が心に思うだけでは伝わらない「何か」が、言葉を使うことによって他者に伝わる。言葉が道具としての側面を持っていることは確かだ。そして、この道具は、道具としての性能を高めれば、自分の感情をより強く伝えたり、命令に圧倒的な圧力を感じさせることも出来る。つまり「言葉のチカラ」を高めることが出来る。言語を道具として見ていれば、「言葉のチカラ」というのは、このように伝達手段としての性能の良さという意味になるだろう。

このような「言葉のチカラ」は、人々に物事を深く考えさせたりするのではなく、盲信させ短絡的に行動するのに大きな力を発揮するチカラなのではないか。むしろそれは無力さの現れではないのか。本当の意味での「言葉の力」というものは、むしろ言葉が持つ構造(それは社会的な意味を強く持つものとして捉えられている)がいかに強く人間を支配しているかを考察することからもたらされるのではないか。まさに、そこから逃れることの出来ない「檻」としての構造こそが「言葉の力」なのだと内田さんは主張しているように見える。

言語を道具として扱う立場は、その道具以前に表現する「何か」が人間の中にあるということを前提する。しかし、言語の本当の構造はそうではなく、言語を語る以前には、人間の中に自覚的に認識できる「何か」はないのだと内田さんは語っているのではないか。人間が「何か」を表現したと思っている「何か」は、実は言語表現をしたときに初めて自覚されたもので、言語表現と同時に・あるいはその結果として反省的に振り返る(=再帰性)ことによって人間に見出されるものだという「構造」が言語の構造だと語っているのではないか。

これは論理に関心を持っている自分には実感として共感できる指摘だ。言語なしに論理を展開することは出来ないし、言語で表現する前に論理的な結論が先に見つかることもない。論理的結論を認識した後に、それを表現する道具として言語を使っているのではないのだ。言語を合理的に使うことによって、その結果として論理的な結論が見出せているという感覚を僕は持つ。

僕は芸術家ではないので、芸術家の感覚を正しく言い当てることは出来ないのだが、芸術家にとっても、その表現がすでに頭の中にあって、表現技術を持っているが故にその頭の中の「何か」が表現されるというものが芸術活動だとは思えない。その「何か」は、むしろ表現技術としての、例えば絵画の技術を持っているからこそ、自分では衝動的に描いてしまったかもしれない絵画を描いた後に、実は自分はこれを表現したかったのだということに気づくのではないだろうか。

絵画の場合は、絵画の技術が「構造」として表現を支配し、その「構造」の下での「何か」が自分の中に生まれるのではないかと思う。そして、言語ではそれが社会的な共通の技術として語彙や文法などが「構造」としての支配をしてくるのではないだろうか。そのような言語の「構造」をソシュールはラングと呼んだのではないだろうか。ラングは、単に言語規範という対象を指すのではなく、人間の思考を支配する「構造」として設定されているのではないだろうか。この「構造」の中身は単純に語ることは出来ないが、それが「構造」として機能することは我々に分かるというものになっているのではないだろうか。「構造」は、それを具体的に捉えることが出来ないところに難しさがあり、その機能しか我々に観察されないのではないだろうか。

言語の「構造」をイメージさせる内田さんの言葉を引用してその内容を考えてみようと思う。まずは


「「効率」とか「美」とかはたまた「批評性」とか「イデオロギー」というような世界分節そのものが言語によってもたらされたものであるという出発点を確認しただけのことである。」


我々は、対象がある性質を持っているから、その性質を認識してそれに言葉を与えたように感じるが、実はまず言葉によって世界を切り分け、世界に構造を与えた後に世界を把握するという理解の仕方をしている。世界は「構造」のない混沌とした集まり(集合)ではない。人間は、そこに秩序を見、言葉によって分節しなければ世界を認識できない。それを思考の対象に出来ないのだ。デビルフィッシュという言葉を持たない日本人は、世界の中にデビルフィッシュを見つけることが出来ない。それは存在しないのだ。しかし、この言葉を知ったと同時に、日本人にもデビルフィッシュが見えてくる。それが存在し始める。これが言語が持つ「構造」だと言えるだろう。


「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのか分からないときに自分が語る言葉を聴くという仕方で経験される。自分が何を言っているのか分からないにもかかわらず『次の単語』が唇に浮かび、統辞的に正しいセンテンスが綴られるのは論理的で美しい母国語が骨肉化している場合だけである。」


自分が入力したと自覚できるものは、それがどのように変化して出力されるかが予想できるだろう。それは単に加工しただけのものであって、それを「創造」と呼ぶのはふさわしくない。入力した覚えがないからこそ、それはあたかも無から生じたように感じ、「創造」と呼ぶにふさわしいものになる。しかし、それは実は意識できない「構造」の深い部分が影響をしてもたらされたものだ。「母国語が骨肉化している」からこそ、言葉による創造が可能になる。意識することなく、自由自在に技術が使えるような段階になってこそ、本当に創造的な「何か(例えば芸術など)」が生み出されるのではないだろうか。「構造」こそが創造性にかかわっているように感じる。

芸術的な技術は訓練をしなければ身につかない。学問的な思考技術もそうだろう。しかし、言語を使う技術は、ほとんどの人が意識せずとも母国語を語れるようなレベルに達している。そこから逃れるには、強い意識が必要だが、それを意識する際にも母国語を使って意識せざるを得ない。この檻からは決して逃れられない。内田さんが指摘しているように、言語は我々を幽閉している檻なのだ。この檻から決して出られないという意味では、言語の限界は我々の思考の限界だと言える。だが、これが檻だからこそ我々は自らが意識しないことでさえも頭の中に浮かんでくる。それは形式システムにはあり得ないことだ。形式システムには創造性はない。決められたことを繰り返すことが出来るだけだ。圧倒的な正確さで。我々は時に間違えるが、そこに創造性の発揮がある。構造主義は、きわめて人間的な現象を説明するのに、腑に落ちる説明をしてくれそうな発想ではないかと思う。

「構造」そのものは明確につかむことは出来ない。しかし「構造」を考えることは人間的な現象の理解を深める。「構造」のイメージが、だんだんとそういうものになってきたような気がする。
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by ksyuumei | 2008-11-28 09:12 | 内田樹


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