構造主義における「構造」のイメージ

若いときに初めて接した「構造主義」は、そこに何が書いてあるのかがよく分からないものだった。日本語としての意味は読み取れるものの、その文章が全体として何を言いたいのかが読み取れないという、何かもやもやとした気分が晴れなかった。このような思いは、複雑で難しい対象を説明した文章に接したときに、誰もが抱く感覚ではないかと思う。そのようなもやもやした分からなさを解消するための鍵はどこに見出したらいいだろうか。

僕が若い頃に接した文章は、正しいかもしれないが分かりにくいものだったように感じる。それに対して、初めて構造主義が分かったと思わせてくれた内田樹さんの文章は、曖昧で正確さを欠いているかもしれないが非常に分かりやすいと思ったものだった。それは、内田さんが『寝ながら学べる構造主義』のまえがきで語っている次のようなものが関係しているのではないかと感じている。


「思想史を記述する場合、ある哲学上の概念を一義的に定義しないと話が先へ進まないということはありません。「主体」や「他者」や「欲望」といったような基本的な概念については、その定義について学会内部的な合意形成が出来ているわけではありません。ですから、「『他者』とはこれこれこういうものである」「何を言うか、『他者』とはこれこれのものである」というような教条的な議論につきあっているのは時間の浪費です。
「『他者』といったら、まあ『他の人』だわな」くらいの緩やかな了解にとどめておいて、とりあえず話を先へ進めたいと私は考えております。
 私が目指しているのは、「複雑な話」の「複雑さ」を温存しつつ、かつ見晴らしの良い思想史的展望を示す、ということです。」


学問的に正確な言い方をすれば、それは正しいかもしれないが、そのことの理解の前提になるような知識を持たない人にとっては全く分からない、それがたぶん日本語で語っているものだろうくらいのことしか分からないものになるだろう。曖昧で正確さを欠くかもしれないが、内田さんのようにとりあえず普通の意味で分かるような意味で解釈しておいて、「「複雑な話」の「複雑さ」を温存しつつ、かつ見晴らしの良い思想史的展望を示す」ような語り方こそが本当に分かりやすい言い方になるのではないかと思う。




しかし内田さんが語っていることは、口で言うほどたやすいことではない。「複雑さの温存」というものに難しさを感じるからだ。分かりやすい言い方は、なかなか複雑さを温存できない。分かりやすいために、それは複雑さが解消されて単純さを持ってしまう。複雑さを温存した語り方というものがどういうものであるかを、「構造主義」のイメージを考えることで考えてみたいと思う。

複雑な話を分かりやすく伝えるということで面白いと感じたものがあった。一昨日だっただろうか、テレビで爆笑問題の太田君と京大の先生や学生が語っていた番組をやっていた。そのときに、太田君は、自分が深く感動したりすばらしいと思ったものを見つけたときに、その感動やすばらしさをどうしても誰かに伝えたいと彼は感じるということを語っていた。そして、その伝える表現を見つけるために全力を尽くすといっていた。太田君にとって重要なのは、他者に理解してもらえる表現を見つけることだということが伝わってきた。

そのように他者に伝えるということで、京大の先生が研究している学問についても、それを、学問のことについてあまり知らない人にも分かるように伝えたいとは思わないか、というような疑問を提出していた。これに対して、学者の解答は、やはり学問の理解のための前提を欠いている人間に伝えるのは難しいということにつきていたように感じた。これは確かに難しいのだろうが、伝えることに情熱を傾ける太田君と、そのような問題を難しいということで片付けてしまう京大の先生とでは問題意識の違いがあるのを感じた。伝えることが重要な意味を持つ「表現者」としての太田君と、認識し自らが理解することに重要な意味がある「研究者」との違いというようなものだろうか。

テレビの議論では、中心の話題となっていたのは「独創性」という問題だったが、このことよりも表現に情熱を傾けるのか、認識を重視するのかという意識の違いの方が僕には面白かった。僕は人間の個性としての「独創性」にはあまり価値を感じていないが、他者に伝える能力というものに対しては価値を感じているからだろうと思う。

内田樹さんという人は、独創的な研究を行う人というよりも、構造主義のように複雑でよく分かりにくいものをそれについて予備知識を持たない人にもそのイメージが浮かぶような語り方が出来る「表現者」として高い能力を持っている人でないかと僕は感じる。内田さんは、自らも独創的な研究者ではなく、誰かがどこかで語ったことを単に「受け売り」(これは独創的な発見者が語る言葉では全く分からない内容を、他者にも分かるように言い換えることと指摘できる)しているだけと語っている。

僕は、内田さんのすごさをこの「受け売り」の能力の高さだと思っている。それを深く理解することで複雑さを温存した語り方を見つけることが出来るだろうか。もしそれを見つけることが出来れば、自分の理解力も深まるだろうし、教育における説明の仕方も進歩するだろうと思う。教師の仕事というのは、まさに「受け売り」において高い能力を示すことではないかと思うからだ。

さて、正確ではあるけれど分かりにくいと感じる構造主義の説明を「MSN エンカルタ百科事典<構造主義>」から引用しよう。


「構造という概念自体は古くからあるもので、一般的には、「個々の部分のたんなる総和ではなく、ひとつの要素の変化がただちに全体に変化をもたらすような諸関係の全体」と定義される。しかし、構造主義における構造概念の特徴は、構造を事物の自然的関係ではなく、むしろ事物が、それによってほかのものから区別されて出現することになる差異の体系とみなし、そのような構造が人間の社会的・歴史的実践において無意識のうちにはたらいていると考える点にある。」


構想主義に対する予備知識を持たない人が、この文章を読んですぐに分かったら、僕はその人の文章読解力に敬服する。僕は、構造主義に対する予備知識はゼロではなく、ある程度勉強してきたのに、この文章をすぐには理解できない。イメージがわいてこないのだ。

構造一般の概念に関しても、「個々の部分のたんなる総和」という表現に対して、数学屋なら「対象を集合として捉えた見方」かなというイメージを持てるが、数学屋ではない人は、これをどうイメージするだろうかということが気になる。「ひとつの要素の変化がただちに全体に変化をもたらす」という言葉も、数学屋としては、「関数によって変化が集合全体にわたって規定されている」というようなイメージを持つ。数学屋にとっては、構造のイメージは、集合とその中に規定された関数(対応)というもののペアでイメージされる。

この抽象的な「構造」の定義は、抽象であるが故に、それと結びつく具体的なイメージは人それぞれであるに違いない。上の構造を、民主主義的な話し合いのイメージで捉えると、個人個人がよかれと思ったものを総和すると、民主的な決定というものが浮かんでくる。しかし、世の中が不安定だから監視機能を高めるのがいいとみんなが思っても、それが全体として及ぼす効果は、不自由な息の詰まるような社会になることもある。これが全体の変化のイメージになれば、数学屋の構造とはだいぶ違う構造のイメージになりそうだ。

上の文章は、抽象的で正確ではあるが、イメージとしては確定せず曖昧になる。また、抽象的であるということは、それは複雑ではなく単純化されているとも言える。複雑さは温存されていない。これは文章としては正確であるにもかかわらず、というよりもそうであるからこそイメージとしては曖昧で正確でなくなる。内田さんが語ることと正反対の効果を生み出しているようだ。

「構造主義における構造概念」は、さらに抽象的でイメージが曖昧になる。構造一般との比較も分かりにくい。それが「自然的関係」ではないと言っているのは、それは直接観察できないと言っているのだろうか。レヴィ・ストロースの親族の基本構造は、現象を解釈することで空想的に設定しているようにも感じる。そのように、頭の中だけで空想的に考えることが出来る、ということを「自然的関係」ではないと言っているのだろうか。

また「差異の体系」というイメージはどのようなものになるだろうか。ある集合において、個々の要素を区別する指標となるようなものが「構造」だという解釈だろうか。これは、集合の要素に関係を与えるものという、構造一般の概念とどう関係してくるのだろうか。

上の説明は辞書の説明であるから、これは半分くらい分かっている人間が確認をするのに役立つような説明となっているのだと考えることも出来る。全くの初心者が読んで役に立つようなものではないという解釈だ。そういう解釈をするなら、この文章が初心者にとって分かりにくいのは仕方がない。それでは初心者にとって分かりやすい説明というのはどういうものになるだろうか。

内田さんは、『こんな日本で良かったね』の中のまえがきで「人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である」ということを書いている。この文章は僕にはとても分かりやすい。イメージしやすい文章になっている。

内田さんは、「構造」については何も語っていない。「まあ<仕組み>とでもしておこう」という感じだろうか。しかし、人が何かを語るときに、それはその人間が自ら独創的に生み出してその中から発生したものではなく、何か分からないけれど「構造」というものがあって、その「構造」に支配されて言葉を語り行動しているのだと語っているのだと受け取れる。それこそが「構造主義」だというわけだ。これは、「構造」についての複雑さを温存しつつ、しかも現象をよく分かるように説明している。「構造」についてはよく分からない。これはあとから分かることになるだろう。だが、現象の解釈としてはよく分かる。

「もし、私の個性というべきものがあるとしたら、それは「他者たちの言葉」のうちのどれを選択的に口にし、「他者たちの教え」のうちどれを優先的に配慮するかという「選択問題」でしかなそうです」という説明も見事なものだと思う。これによって、個性とか独創性ということについてはよく分からなくても、つまり複雑さを温存したとしても、それがあるとしたならば「選択性」のことだということの説明はすっきりと分かる。

そしてその選択肢は、すでに誰かが語ったことなのであるから、構造的にもう決められているのだということも判る。ここにも「構造主義」のイメージが伝わってくる。このように考えると、独創性の問題はそれほど難しいものにはならない。選択問題において発揮すればいいのである。

内田さんの語り方は、構造主義のイメージをはっきりと見させてくれる。それに対して辞書的な説明は、言葉としては正確かもしれないが、イメージはほとんど浮かんでこない。そのあたりに「複雑さの温存」の秘密があるかもしれない。内田さんの『こんな日本で良かったね』という本からヒントを探してみようと思う。
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by ksyuumei | 2008-11-26 16:03 | 構造主義


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