数学的理解と数学論的理解

『不完全性定理』(林晋・八杉満利子:著、岩波文庫)の「まえがき」の冒頭に「ほとんど予備知識のない人が、入門書だけを読んで不完全性定理の数学的内容を理解することは不可能である」との宣言のような断定がある。そして「この定理を数学的にも理解したいならば、まず数理論理学を理解しなければならない」という言葉が続いている。これは全くその通りだと思う。

しかし、多くの人がそのエッセンスだけでも伝えようと努力をしている。そしてその初歩の論理学の入門のために多くのページを費やして説明しようとする『ゲーデル、エッシャー、バッハ』というような本がかつてベストセラーになっていたりする。この定理はそれだけ魅力あるものであり、人を惹きつけるものなのだろう。

数学的内容を理解することを「数学的理解」と名付けると、もう一つの理解として「数学論的理解」というようなものが考えられると、前掲の岩波文庫では語られている。これは、「数学的理解」というものが、それが認められた理論であるならば、ほぼ一致した見解で「正しい」と判断されるものと捉えられている。そして、その内容はさておいて、とりあえず「正しい」と判断しておいて、その上で数学全体にとってその理論がどのような意味を持っているかという、哲学的な考察をすることを「数学論的理解」と呼んでいるようだ。




岩波文庫の「まえがき」では「不完全性定理の背景には、西洋文明が持つ過剰なまでの哲学的傾向がある」という指摘もある。この哲学的な要素が、ゲーデルの定理を「数学論的理解」に導くような傾向を生むのだろう。だが、「数学的理解」を飛ばして「数学論的理解」に進む方向は、「こういうアプローチをとることに原理的問題はない」とはいえども、「これが出来るのは非常に優れた判断力とバランス感覚の持ち主だけである」とも指摘されている。言葉を言い換えれば、普通は間違えるのが当たり前だと考えられる。ゲーデルの定理の「数学論的理解」には誤謬が含まれる可能性が高い。それでは、その誤謬はどのような「逸脱」から生み出されるのだろう。「逸脱」の可能性という面に注目して、ゲーデルの定理の「数学論的理解」というものを見てみようかと思う。

まずは、「第1不完全定理」および「第2不完全定理」と呼ばれている二つの定理について、「厳密さを損なわずにしかし平易に述べてみると、次のようになる」という「数学的理解」に通じる表現を引用しよう。


1 数学の形式系、つまり、形式系と呼ばれる論理学の人工言語で記述された「数学」は、その表現力が十分豊かならば、完全かつ無矛盾であることはない。

2 数学の形式系の表現力が十分豊かならば、その形式系が無矛盾であるという事実は、(その事実が本当である限り)その形式系自身の中では証明できない。


この二つの表現が「厳密さを損なわずに」といわれているのは、その内容の読み取りにおいて、数学者ならば誰でも同じものを読み取り、意味の解釈がぶれることがないということを意味する。しかし、ここに表現されているのは日常言語での表現なので、このような表現は意味の多様性を持っている。例えば「十分豊か」という表現は、数学者の間ではどのような意味であるかが確定しても、これをそのような前提で見ない人にとっては、辞書的な意味での理解をすることになるだろう。ここに、限定された意味を「逸脱」するという面での誤謬の可能性が生まれる。

この場合、辞書的な意味での語彙は豊富な人の方が誤謬の可能性は高まるだろう。「十分豊か」などという表現は、ありふれた表現なので、おそらく誰もがイメージを持つことが出来るだろう。しかし、「形式系」とか「完全」「無矛盾」などという言葉は、その言葉だけでは全くイメージがわかない人もいるだろう。日常的に使われる言葉ではないからだ。そのような人は、誤解をする恐れも少なくなる。誤解というのは、間違った理解のことを指すが、たとえ間違っていようとも、まず理解できないことには誤解のしようもない。語彙が豊かで、一応辞書的にはその意味が理解できてしまう人にこそ、意味の幅から来る「逸脱」が生じて誤謬の可能性が生じるのだと思う。

さて、上のような数学的表現を、数学論として、ある種の解釈を通して表現し直してみると、次のようになると書かれている。


1’ 数学は矛盾しているか不完全であるか、どちらかである。

2’ 数学の正しさを「確実な方法」で保証することは不可能であり、それが正しいと信じるしかない。


数学的表現では「完全かつ無矛盾」であることはない、と語られていたのだから、それじゃどっちかだろうというのは普通に解釈できることでそれほど難しいものではないだろう。しかし、「完全」や「無矛盾」の中身が多種多様であることを考えると、この当然とも思える言明が、この言明の解釈を巡ってまた多様になり、深い誤謬の海の中に入り込む恐れを感じる。

しかも無矛盾というのは、2の中で「その形式系自身の中では証明出来ない」と語られている。「その形式自身の中では」という言葉の意味が気になるが、「証明できない」という言葉の印象が深くなると、「矛盾しているか不完全であるか」どっちかなんだけれど、どっちになるかは「証明できない」つまり決められないというふうに考えが進んでいく。そうすると2’にあるような解釈が生まれるのではないだろうか。ちょっと過激に感じるような表現ではあるが、「正しいと信じるしかない」という感じがぴったり来るような気になってくる。

正しいと信じるということは、それが矛盾していない・つまり無矛盾ということだ。そうであれば、完全性は言えないのだから、正しいと信じている人は、同時に不完全であるということも信じるしかない。しかし信じていることはしばしば裏切られる。そうであれば、もしかしたら数学は正しくなく、どこかに矛盾が含まれているかもしれない。そうすると、矛盾した論理体系からは、任意の命題が引き出されてしまう。どんな主張でも、論理的な正当性をいうことが出来てしまう。

このような矛盾した体系では、完全性という概念はもはや意味をなさなくなる。そこではどんな命題も証明されてしまう。つまり、命題が正しいかどうかということを考える意味がなくなってしまうのだ。数学が正しいと信じていても、そこからは「不完全」という結果が導かれる。もしこの信頼が裏切られれば、数学を始めとする論理的な知の信用がいっぺんに失われてしまう。どちらにしても困ったことだという印象が生まれる。

そこで、ゲーデルの「不完全性定理は人類の知の限界を示すものだ、という見解が一般的だが」と言われている。これに対しては、「ゲーデル自身はそういう見解を退けている」そうだ。このことは、野矢茂樹さんの『論理学』という本の中で、「「ゲーデルの不完全性定理は知性の限界を示した」とか「人間には認識できない真理があることが示された」とか、いろんなことが言われてしまうみたいなんですね。でも、不完全性定理に対するそうした理解は間違っています」と書いていた。

ここにも一つの誤謬が語られているような気がするが、この誤謬はまだ断定できるほど確実なものではないようだ。解釈された1'と2'から帰結するように感じられるこの種の見解は、解釈の余地という点では、賛成できないかもしれないがゼロであるとは言えないかもしれない。岩波文庫では、「1'と2’は、「解釈された不完全性定理」であり、数学の定理ではない」という指摘がされている。数学の定理であれば、その解釈はずれることはなく、ほぼ唯一に決まってしまうので、多様な解釈を許さない。しかし、数学自体について語る数学論的な表現は、数学という対象をどう捉えるかという数学観によって微妙な意味の食い違いが出てくる。

1’と2’においてその基礎となっている数学観は、「数学=数学の形式系」というような見方だと指摘されている。つまり、ゲーデルの定理は、実は「数学の形式系」に対して、それが本質的に不完全であることを言ったのであり、その形式系の中では無矛盾ということが証明できないということを語ったのであるが、その数学の形式系が数学そのものと重なってしまえば、その解釈は「数学の不完全性」であり「数学の不確実性」というものになってくる。

このような数学観は「経験に基づいてその正しさを論じることは出来るが、それを数学的に実証することは出来ない」と指摘されている。テーゼとして信じることしかできないということだろうか。「数学=数学の形式系」という数学観は、「ヒルベルトのテーゼ」とも呼ばれている。この「ヒルベルトのテーゼ」に対して自らの立場をいかにとるかという「立場を鮮明にしない限り、数学的不完全性定理から、明瞭な数学論的不完全性定理を導くことは出来ない」と岩波文庫では主張されている。ここに誤謬に陥る根源があるのかもしれない。次の提言は、誤謬論として有効なものではないかと思う。


「そういう立場には多くのヴァリエーションがあるから、数学論的不完全性定理にも多くの結論がある。それゆえに、数学としてのゲーデルの定理には、何ら曖昧なところがない一方で、それから引き出される数学論が様々であることは自然なことなのである。ところが多くの人は、ヒルベルトのテーゼのような「形式系への立場表明」を欠いたままで数学論的不完全性定理を論じる。そのことから誤解や混乱が起きるのである。
 この仕組みを理解しておけば、混乱や誤解の多くは解消できるし、数学論としてのゲーデルの定理の理解は遙かに容易になる。そうすれば、数学論的部分に幻惑されることが減る分だけ、数学的不完全性定理の理解も容易になる。ただし、この仕組みの理解が数学以外の攪乱要素を排除するために役立つだけで、それを理解することにより数学的内容が理解できるわけではない。この点を誤解してはいけない。」


岩波文庫では、ゲーデルの定理は、予備知識として前提している量は少ないともいっていた。つまり、言葉の意味が分からなくて、その言っていることが判らなくなることが少ないということだ。専門的な文章では、専門用語の難しさから、何を言っているのかさっぱり判らなくなるときもある。そのような面はゲーデルの定理には少ないだろうというのだ。しかし、それは、表現された文章の内容を、辞書的な意味で受け取ることによる意味のずれという「逸脱」の可能性も大きくさせる。

その意味のずれは、根本的な要因としては「数学=数学の形式系」という数学観にかかっているようだ。ゲーデルの定理の理解には、このような数学観の理解が必要になる。それでは、この数学観を「うまく説明」することは出来るだろうか。『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という700ページ以上の大著を使わなくても出来るような説明があるだろうか。自分でも考えてみようと思うが、アンテナを鋭くして、どこかにあるかもしれないその説明を探してみようかと思う。
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by ksyuumei | 2008-10-10 10:36 | 誤謬論


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