麻生さんの所信表明演説 1

麻生さんの所信表明演説があった。その内容については、専門家が詳しい解説をしてくれるだろうと思う。そこで、内容そのものには立ち入らずに、その主張の論理的側面に注目して、ある種の前提から論理的に導かれた帰結ではないかと思われる部分を探してみたいと思う。

論理的な語り方をしている部分というのは、その論理をはっきりと自覚して、相手を説得しようという意図があれば、自明だと思えることでも明確に記述して説明することが多い。しかし、そのような意図があまりなく、これは自明なことで言うまでもなく誰もがそう思う、という思い込みがあれば、そのことの前提をわざわざ言うことはないだろう。そのようなところが麻生さんの演説の中にないかも探してみたいと思う。

前提を語らないことは、何か論理的でないように見えるかもしれないが、論理的でないというのは、その導出の仕方が論理法則に反しているときに指摘できることで、自明の前提を置いていたとしても、そこから正当に導かれる論理を使っているのであれば、前提を語らずとも論理的であると言える。このように、麻生さんが語ることの論理的な側面を評価するという読み方をしたいと思う。もし麻生さんが論理的におかしなことを語っていれば、それは結論として主張されていることが信用しがたいということを意味する。しかし、麻生さんが正当な論理を使っているのであれば、あとはその前提となっていることが正しいのなら、その結論を確信を持って信じてもいいということになるだろう。



さて、麻生さんの演説は「第170回国会における麻生内閣総理大臣所信表明演説」というページで全文を確認出来る。ここから、論理的な匂いを感じるところを抜き出していこうと思う。

まずは「就任に当たって」と題をつけられた部分では、麻生さんの決意・べき論・願いを語ってはいるものの、それがどのようなものから生じたかということについては触れられていない。だから論理的な語り方ではないといっていいだろう。あえていえば、この部分は麻生さんの感情を語っているのであって、その感情に共感する人はこれを肯定し、共感できない人は疑問を持つというような部分になっているだろう。

僕はこの部分には共感できない。日本が「強くあらねばならない」「明るくなければならない」という<べき論>はどうも好きになれない。結果的に強くなったり明るくなったりするのはいいのだが、それを目指してがんばるというのは、すでに戦後否定された精神主義の復活を思わせるような気がするからだ。気持ちだけ強くなったり明るくなったりしても、それは大いなる勘違いだというときもある。これは、結果としてそう感じられるような社会を建設することに政治家が努力すべきという<べき論>として語るのが正しいのではないかと感じている。

「国会運営」に関する部分では、次の主張が論理的側面を持っているように見える。


「先の国会で、民主党は、自らが勢力を握る参議院において、税制法案を店晒しにしました。その結果、二か月も意思決定がなされませんでした。政局を第一義とし、国民の生活を第二義、第三義とする姿勢に終始したのであります。」


これは、「民主党が税制法案を店晒しにした」ということを前提として「二か月も意思決定がなされなかった」という結論を導き出していると考えられる。そしてこのことからの帰結として、民主党の姿勢というものへの批判も生じている。これも論理的に導かれているように見える。

しかし、これは論理としては中途半端である。「店晒しにした」ということが、この言葉の概念から直ちに「2ヶ月も意志決定がなされなかった」という結論に結びつかないからだ。意思決定がなされなかった理由が他に存在しないのであれば、この論理は正当性を持つ。しかし他の可能性が一つでもあるのなら、その可能性を否定しなければ論理的な正当性はない。

ここで主張されている論理的正当性は、「店晒しにした」という事実のあとに、時間的な前後関係で「二ヶ月も意思決定がなされなかった」という観察された事実があったということだけではないかと思われる。観察による事実の記述というのは、そこに論理的なつながりを観察することが出来ない。論理的なつながりは、あくまでも言葉の上での関係から判断される。観察で得られるのは、個々別々の事実がどのように集まっているかということだけだ。「その結果」という論理を展開するのなら、これは、確かにその結果だと言葉の上でもそのつながりが見られるように前提を集めなければならないだろう。ここでは論理的正当性が不十分だ。

「店晒しにした」結果が意思決定にかかわっているということをいうためには、論理的にはそのほかの原因は否定されなければならないから、たとえば税制法案の正しさも証明されなければならないだろう。それが正しいにもかかわらずまともな議論をしなかったなら、「店晒し」という表現の正当性も出てくる。しかし、その正しさは証明されたのだろうか。これは、自然科学と違って絶対的な正しさを主張することは出来ないだろうが、反対を押し切るためにはかなりの高い比率で正しい蓋然性を主張できなければならないと思う。

また、「店晒し」と「意思決定」の関係が論理的に成り立ったとしても、そこから民主党への批判が論理的に導かれるためには、その「店晒し」の責任が民主党にあるということも証明されなければならない。これは税制法案が正しいものであれば、それに反対する民主党に責任があるという論理が成り立つだろうが、それは十分証明されているか。もしそれが十分証明されているのであれば、国民は先の参議院選で民主党の方を選ばなかったのではないか。税制法案に限らず、その正当性を吟味する時間もなく、自民党が強行採決という手段に出たことが、法案の正しさに疑いを抱かせたからこそ参議院選では民主党の方が支持されたのではないだろうか。

ここの論理展開には疑問を感じるところが多い。論理的には説明が不十分であり、レトリックとしては民主党のイメージを落とし、選挙におけるネガティブキャンペーンに利用しているのではないかと思わせる。これに共感する国民が多ければ、麻生さんの作戦は成功だと言えるのだろうが、果たしてどうなるだろうか。国民は、麻生さんが言うように、国会の空転は民主党が悪いのだと理解してくれるだろうか。この主張は、福田さんの辞任会見の時にも語られていたのだが、対立する相手が反対するから意思が通せないというのは、逆の視点から見れば、反対する相手を説得するだけの能力がないのだということを自らが語っているとも言える。論理的にはそう理解した方がいいのではないかと感じる。

ここでは、


「与野党の論戦と、政策をめぐる攻防は、もとより議会制民主主義が前提とするところです。しかし、合意の形成をあらかじめ拒む議会は、およそその名に値しません。」


という一般論的な論理も語られている。この論理は、一般論として考える限りでは正しいのではないかと思われる。具体的な主張においては前提の不足を感じたが、一般論では、「議会制民主主義」という言葉の定義の中に、そもそも合意によって政治を運営していくということが含まれている。誰か権力者の恣意的な判断によって物事を決定するのではないということは、具体的な現実を観察することなく前提されている。

だから、「合意の形成をあらかじめ拒む議会は、およそその名に値しません」という主張は正当だろう。しかし、この一般論が正当だからといって、これがすぐに民主党に当てはめられると考えるのは、論理的判断としては短絡的すぎる。一般論を具体的現実に適用するには、その条件をよく吟味しなければならない。民主党の現実が、「合意の形成をあらかじめ拒む」ということに値するのだということが、具体的な事実によって証明されなければならない。そのような印象があるというだけでは論理的に正当な展開にならない。

麻生さんの演説に、そこを論理的に結びつけて語っているような部分は見つからない。ここは、レトリックとして民主党の非難をすることを印象づけるために語られていると受け取った方がいいだろう。その効果があったかどうかは、今後の世論調査などで、民主党の支持率が下がって、自民党の支持率が上がるなどの結果が出てくれば評価できるだろう。そのときは、論理的な正当性には不足があって不十分だが、選挙のための戦術としては効果を上げたというような評価が出来るのではないかと思う。

この「国家運営」の部分は、論理的に語られている部分が見られるものの、そこで主張されているのは民主党への非難であり、政治の空白を作った責任の大半は民主党にあるということをイメージづけることにあるように見える。論理を語った部分も、それはレトリックとしての論理であり、何かを正当づけるための論理ではないと僕は評価する。麻生さんが、選挙対策のために生まれた総理だということを象徴的に物語る言説の部分ではないかと思う。

福田さんもそうだったが、うまくいかないのは対立する相手が悪いという主張は、子供の言い分ならまだしも、一国の首相というリーダーの中のリーダーが言うことだろうかという思いが僕にはある。どれほど相手がずるく立ち回ろうとも、それを上回る正しさで相手をねじ伏せるだけのものを見せるのがリーダーにふさわしい資質ではないだろうか。

選挙というのは、真理よりもイメージが大きく影響して勝敗が決まるところがある。誰が見ても力量的に不十分だったブッシュさんが二期も大統領を務めたというのが選挙の持っている怖さだろうと思う。だから、麻生さんが論理的な真理よりもイメージ戦略の方を選んだというのは、選挙対策としては正しいのかもしれない。しかし、ここまでの演説は、その選挙対策が見え見えの内容を持っていて、かえってそのイメージもむなしい幻想のように見えてこないだろうか。麻生さんが民主党の方を非難すればするほど、そのようにたいしたことのない民主党を、なぜ自民党は凌駕して正しさを示せないのかということの疑問の方がふくらんでくる。

この部分までの麻生さんの演説の印象は、僕には論理性がひどく少なく、むしろ民主党のイメージをおとしめることに最大の努力を払っているように見える。麻生さんに期待されていることというのは、果たしてこのようなことなのだろうか。自民党の議員は、選挙が心配だからこのような麻生さんに期待を抱くかもしれないが、国民は、生活のことを心配せずに選挙のことを心配しているように見える麻生さんに、果たして信頼を寄せられるだろうか。もし、この演説を聞いた国民が、総選挙で自民党を支持するようなことがあれば、国民の論理的判断というものにも僕は疑問を持たざるを得ない。自民党の思惑通りに国民が動かないことを願うのだが、果たしてどうなるだろうか。麻生さんの残りの演説の内容を見て、さらに考えてみたいと思う。
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by ksyuumei | 2008-09-30 10:06 | 政治


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