一般論的主張と現実解釈との整合性

内田樹さんの「私の好きな統治者」というブログ・エントリーがようやくパソコンで読めるようになった。記憶にあるように、ここに書かれた内容は「宰相論」に関する一般論がほとんどだった。その一般論を語る過程で、現実の「宰相」に当たるかもしれない麻生氏について少し言及しているというのがこのエントリーの印象だ。

ここに書かれている一般論に関しては僕はだいたい共感してその通りだと思う。しかし、麻生氏を評価しているように見える部分、


「麻生太郎は総裁選挙前はずいぶんと言いたい放題のことを言っていたが、選挙になるとさまざまなトピックについて明言を避け、失言を抑制し、何が言いたいのかわからない人間になりつつある。
私はこれを彼が「公的責務」の重さを思い知った徴候だと思って、頼もしく受け止めている。
だから、各新聞の社説が「もごもご言うな」といきり立つことに少しも同調する気になれないのである。」


に関しては、この受け取り方(理解の仕方)によっては、自分とは反対の判断をしているのだろうかと思ってしまう。だが一般論からの論理的帰結としては内田さんが語ることが論理的には正しいようにも思える。自分は、論理的な判断ではなく、感情的な好き嫌いから麻生氏の曖昧さに対してマイナスの評価を与えているのだろうか。そのあたりの論理と現実の整合性についてちょっと詳しく考えてみたくなった。また、マスコミが麻生氏の曖昧さを批判する論調と僕の感じ方がちょっとニュアンスに違いがあるのも感じる。このあたりのことも、内田さんの主張をヒントに、そこにある違和感を説明できるのではないかとも感じている。



さて、内田さんの「宰相論」の一般論としての部分で、まずは共感する部分を確かめておこう。それは論理的な前提としては次のようなものを設定するところだ。


・「政治家といえども人間である。個人的信念があり、価値観があり、審美的好悪がある。これはその人の「私」の部分である。」

・「政治家には「民意を代表して、国益を最大化する」という義務がある。」

・「「民意」のうちには政治家個人の信念や価値観や嗜好とあきらかに異質なものが含まれている。」

・「自分自身の政治的信念と背馳するような政治的信念をもっている人間であれ、その人が法制上の「国民」である限り、政治家はそのような人の意向をも代表せねばならない。」


この4つの前提は、いずれも正当だと思える。どの前提も否定することが出来ない。この前提を全部認めるとしたら、そこから論理的に次のような結論が導かれるだろう。


「どういう政治家が指導者として望ましいのかについて考える。
「葛藤に引き裂かれている人」というのが私のとりあえずの希望である。」


自分を持っている政治家は、彼が政治家であるが故に、その個人的信念に反するような「民意」も受け止めて配慮しなければならないという義務を持っている。当然ながら反対の主張(命題)を同時に持たなければならないのだから、どちらか一方にすっきり決めるというような分かりやすい・気持ちのいい決定が出来ない。これは論理的な帰結であって、好むと好まざるとにかかわらず、政治家はそういう存在でなければならない。どちらか一方に決めてしまえば、上の4つの命題の内のどれかを否定することになってしまう。上の4つの命題を保持するなら、その葛藤に引き裂かれる。だから、望ましいのは「葛藤に引き裂かれている人」だということだ。これはきわめて論理的であり共感するものだ。

もし葛藤を感じずに、問題をクリアカットにどちらか一方を正解として提出するような人間が統治者になったらどう考えられるだろうか。内田さんは次のように書いている。


「「葛藤のない」のは私的な信念・心情を公的な責務に優先させることに抵抗を感じていないか、自分の私的利害と公的利害とが一致している(だから自己利益の追求がそのまま国益の増大に結実する)と思い込んでいるか、どちらかである。
前者であれば悪人であり、後者であれば愚者である(その両方である場合もある)。」


これもきわめて論理的な判断だろう。葛藤がないということは、もしその判断が反対のものであるなら、どちらか一方がより優先されて選ばれているということになる。そうでなければ葛藤が起きるだろう。この場合、公的なものを優先させるなら偉いということになるが、たいていはそうならない。たいていは、公よりも私を優先させるだろう。

また、公私が一致していると判断すればそこにも葛藤は起きない。しかし公私が一致しているという判断は、普通の人間には出来ないだろう。「前者であれば悪人であり、後者であれば愚者である」という判断は正しいものだと思われる。

このように一般論の段階では、内田さんが語ることの論理性が納得できるので、その主張にほぼ賛成できると僕は感じている。この一般論への賛成が、麻生さんへの評価においては、どうして食い違いが起こるのか。それは一般論を具体的現実へ適用するという点で、適用条件の判断に若干の違いが生じているからではないかと思われる。

内田さんは、麻生さんの「言いたい放題のことを言っていた」面が「選挙になるとさまざまなトピックについて明言を避け、失言を抑制し、何が言いたいのかわからない人間になりつつある」というふうに変化していったところを捉えて、一般論的な結論である「宰相は葛藤に引き裂かれている人が望ましい」という命題を適用しているように見える。麻生さんの「葛藤」という面を評価したと考えられるだろう。

これが一般論の適用だということを考えると、ここには一般論を適用するために具体的な条件が捨象されているのを感じる。麻生さんが、どうして持論をきっぱりと言わずに、曖昧な表現になったかというような具体的な条件は考慮の外に置かれているのを感じる。むしろ、きっぱりした言い方が曖昧になったというその結果(事実として現れている現象)を捉えて、そこに一般論を適用しているように見える。

しかし、僕は麻生さんが曖昧な言い方をすることの条件が、今このときの麻生さんの立場という、きわめて具体的な条件の下では正しくないと評価している。今はきっぱりと言うべきだと思うのだ。これは「宰相論」の一般論からは抜け落ちてしまう、捨象されてしまう現実を前提に入れての論理展開になる。だから、内田さんの一般論の展開に論理的に賛成したとしても、その前提に違いが入ってくれば、論理的な帰結が違ってくるということになる。

僕は、宰相の葛藤の判断の中に、科学的に「絶対的真理」が確定できるような内容についてはきっぱりと言うべきだろうという条件を盛り込んだ方がいいと考えている。科学的な判断が出来ない事柄については、どちらが正しいかは「葛藤に引き裂かれている」べきだ。しかし、その帰結がほぼ明らかに主張できるという事柄については葛藤するのではなく、それが正しいことを説得すべきだと思う。

麻生さんが語ることの中にそういうものがあると思うから、そこについて曖昧に言葉を濁していることにマイナスの評価を与えざるを得ないと思う。年金の破綻の問題をはじめとして、構造的に抱えている欠陥というものは、それが現れるのが先送りにされているだけなのだから、それは明確に語るべきだろう。その解決にどのような方法がふさわしいかということは、これは絶対的にこれが正しいというようなものはないから、その点では葛藤すべきだが、欠陥の存在は明らかに語るべきだと思っている。

麻生さんは、持論である年金の全額税方式の問題などを封印したという。これは、どのような解決がふさわしいかということであるから、葛藤に値するものだろうと思う。だからこのことを明確に語らなくなったからといって、それ自体はさほど非難すべきものではないかもしれない。しかし、年金が、何らかの方法で解決を図らない限り、破綻が明らかになるということは明確に語らなければならない。すでにそれは破綻しているとも言われている。これを語らずに、解決方法だけを主張するから葛藤せざるを得なくなるのではないか。明らかに問題があることを語り、どの方法での解決がふさわしいかを問うのが、政治において民意を問うということになるだろう。

麻生さんは国連会議では、集団的自衛権についてはかなりきっぱりと、その可能性を肯定したようだ。これなどは、本来は葛藤してもらいたいことであるのにきっぱりと言いすぎたのではないかと感じる。麻生氏がきっぱりと言うべきことは、集団的自衛権そのものについて曖昧にしたままでは問題があるということの方ではないだろうか。その解決には、憲法そのものを変えるとか、解釈を変えるとかいろいろあるが、集団的自衛権について何も考えず、何も言わずに国際社会で責任ある国家としては振る舞えないのだという問題そのものはきっぱりと語るべきだろう。その問題について語らずに、いきなり解決の方法について(憲法解釈を変える)語るのは、語る内容を間違えていると感じる。内田さんの「宰相論」からいえば、総裁になった後の麻生さんは、きっぱりと言うべきことと葛藤することを間違えているのではないかという気もする。

一般論からの帰結で葛藤することを評価した内田さんも、最近の麻生さんのきっぱりとした言い方には「きっぱりとした政治的信念を持ち、一歩とて譲歩することなく、持論への反対は黙殺し、百万人と雖も我往かんというような統治者なんか私はごめんである」という一般論で評価し直したいのではないかと思う。なおこの一般論を、引退表明した小泉さんに当てはめると、何でもきっぱりと言い切ってしまう小泉さんは、内田さんの「宰相論」からいえば、最も望ましくない宰相ということになるだろう。僕自身の評価は、小泉さんがきっぱり言い切ったことが、科学的な意味での真理に近いものであれば評価できるが、郵政民営化などのように、評価が分かれる問題ではやはり葛藤してもらいたかったと思う。葛藤がなかったことについて、そこに負の遺産が生じてしまったのではないかと思う。

最後に、マスコミと僕のニュアンスの違いを考えてみると、マスコミは麻生さんがきっぱりと語らなかったこと自体を非難しているように見える。持論の展開を総裁選では語らなかったこと自体を批判していたようだ。だが、僕は、語るべきことを語らずにいたことを批判的に見ていた。マスコミが要求したようなことをきっぱり言わなくてもいいから、問題の所在が明らかに分かることについてはきっぱりと言って欲しかったということを批判的に見ていた。その部分は、おそらく河野太郎氏などの有能な若手政治家はきっぱりと言える部分だと思うからだ。
[PR]
by ksyuumei | 2008-09-27 11:51 | 内田樹


<< ブログ・エントリーのための覚え書き 麻生新総裁誕生の評価について 3 >>