デカルトの偉大さ

ウィトゲンシュタインが考えたような命題の集まりである世界の全体が、どのようにして広がっていくかという過程を考察しようとして哲学史を調べている。哲学に革命的な進歩をもたらした発想は、ほとんどの場合それまで自明だと思われていたことを疑い、世界像というものを新たに作り直すことによって哲学というものを革新しているように見える。

特に、方法的懐疑というものによってすべてのものを疑い、確実な真理を求めたデカルトに関心を持って調べている。調べているいくつかの哲学史の書物の中で、入門書的な『初めての哲学史』(竹田青嗣・西研:編、有斐閣アルマ)という本の中にちょっと気になる記述があった。板倉聖宣さんは、良い入門書は根源的な問題について書いてあるので、専門書のような細かい記述を求めるのでなければ、その分野の最も大切な本質が学べるようなものが入門書の中にこそあると語っていた。内田樹さんも、入門書の中にこそ誰も扱わないような、しかも誰もが疑問に思うような大きな問題が語られているといっていた。

竹田さんと西さんのこの入門書も、板倉さんや内田さんが語る良い入門書の性格を持っているもののように感じた。これは単に、専門的な細かい知識を、ちょっと薄めて分かりやすく並べただけの入門書ではないように感じる。ここには、哲学というものに潜む根源的な問いが込められているように感じた。そこでデカルトに関する記述についてもちょっと気になるようなものが目についたというわけだ。




デカルトについては、「我思う、故に我あり」と訳される言葉によって知られている。すべてを疑ったデカルトも、その疑いを抱いている自分自身の存在については疑いようのない真理として確立できると考えたというふうにこの言葉は解釈されている。すべてのことを疑った末に残った、これだけが確実な真理であり、これを出発点としてデカルトは哲学を構築し直したというのがいわば一般的な理解ではないだろうか。

だが、このことを出発点としてどのような論理展開が出来るかを考えてみると、実は一歩も論理が進んでいかないのを感じる。自分の存在を自分が認識しているという主観については、自分には確実性を伴って感じられているものの、それは他の人間には全く分からない。他者の思いは経験することが出来ない。そして、自分の意識はこのように確実だとしても、その意識が映し出している、自分ではない存在(客観的存在と言われているもの)の確実性は、このことから論理的に導くことが出来ない。哲学史の上では簡単に説明されている事柄が、よく考えると全く理解できない難しいものに思えてくる。

このデカルトについて前述の本は、まず方法的懐疑について次のように説明している。


「自然科学の知識の正しさを誰もが信じていた中で、自身が優れた数学者・物理学者でもあったデカルトは、あえてそれらが正しいと言える理由を説明しなければならないと考えた。<学問が単なる習慣や信念と違うとすれば、それは学問が一歩一歩きちんと論証され積み上げられている点にある。しかし数学や自然科学といえども、最も根本的な土台から積み上げられているとは言えない>と考えたデカルトは、少しでも疑わしいことはすべて疑った上で、絶対に確実な知識の基礎を見出し、そこから積み上げていって学問的知識の正しさを論証しようとしたのである。」


ここまでは一般的に知られていることと同じだ。そして、通念では、デカルトは確実な真理である「我思う、故に我あり」を手に入れ、ここに近代哲学の出発点があると理解されている。つまり、デカルトは方法的懐疑によって提出された問題を解決したと思われているのが通念ではないかと思う。しかしこの本によれば「デカルトは、結果的に、近代哲学最大の難問をむしろ提出してしまった」といわれている。問題を解決したのではなく、提出したことにデカルトの偉大さを見ているのだ。それは次のようなものだと書かれている。


「彼は疑わしいものはすべて疑う、という「方法的懐疑」を遂行して、<目の前にあるものの存在すら疑わしい、それはひょっとして「夢」かもしれないし、「悪い霊」が私を欺こうとしているかもしれないからだ>と言う。ではどこにも確実なものはないのか。<こうやって疑ったり考えたりしている私の存在、これだけは疑い得ない。我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)>。私の目の前にあるコップはひょっとすると夢かもしれないが、しかし私がコップがあると思っているという事実、これだけは疑い得ないはずだ、と言うのである。
 しかしこの「我あり」は、私に少しも客観的な知識を保証しはしない。むしろ、この懐疑と我ありの証明が意味するのは、私にとっていかにリアルだと思えても、それが客観的にもそうである保証はどこにもない、ということである。デカルトは、「私にとってのリアリティ」と「客観的な現実」との間に裂け目を入れてしまったのだ。」


意識と実在、あるいは主観と客観の問題はデカルト以後の哲学の最重要問題となったように思われる。それは未だに明確な解決に至っていないのではないかとも感じる。このように重要でしかも解決の難しい問題を提出したというところにデカルトの偉大さを見るのは、何か問題を解決したことを偉大だと言うよりも、もっと大きな偉大さを評価していることになり、デカルトにふさわしい理解の仕方になるのではないかと思う。

主観の存在は自分自身にとっては自明とも思えるくらい確実なことだ。それがなければ自分という存在を自分が感じることも出来ないだろう。しかし、これが確実であればあるほど、客観的に存在していると感じられる物質的なものがどうして我々に認識できるのかということの確実性は失われていくようだ。それまではその存在を自明に前提として考察を進めていた世界が、もしかしたらその存在は客観的なものではなく、主観の中の幻想かもしれないという世界の可能性を常に考慮した命題を必要とするようになった。

主観がどのようにして客観を認識し、それが一致すると言えるかという問題は、デカルト自身の解決は信用するに足るものではなかったようだ。それは神の存在証明を基礎にして、神の力によって人間は正しく客観を認識できるという命題の正しさを保証しようとしたものだった。論理によってその正しさを証明することは出来なかった。神の力を借りてそれが正しいことを主張するしかなかったのだ。

だからデカルトが問題を解決したという理解をしていると、そこにはあまり偉大さの実感はわいてこない。むしろ、その後まだ誰も解決していないような問題で、しかも誰もがそれに取り組まざるを得ないほどの重要性と関心を呼ぶような問題を提出したと理解すると、その偉大さが実感として感じられる。

デカルトのような方法的懐疑を行わず、客観的存在を自明の前提として素朴に信じていれば、これは主観と客観の不一致に苦しむこともないかもしれない。それこそ素朴な信仰として、我々の五感に感じられるのだから、客観的存在は確かにあるのだと信じることも出来る。デカルトが証明した、神の力を基礎にした考えは、素朴な実在論を突き詰めていけばそうならざるを得ないところかもしれない。この素朴な実在論はどうしてだめなのだろうか。

素朴な実在論は、やはり確実性という点でどうしても絶対的な真理には結びつかない。方法的懐疑を経ていないので、それは五感に頼ればやはり幻想である可能性を否定できないのだ。確実でなくても、蓋然的であればいいというプラグマティックな目的での判断ならそれも役に立つだろう。しかし、絶対確実な真理の体系として学問を築きたいと思ったら、素朴実在論では誰をも納得させるような論理体系として構築することが出来なくなる。

このデカルトが提出した問題は、未だに説得的な解決には至っていないような気もする。素朴実在論の延長である神を持ち出す思考は、現在では全く顧みられなくなっていると思われるが、その反対の極であるウィトゲンシュタイン的な言語ゲームの考え方は多くの人の支持を得てきているようだ。だが、これは反対の極に当たりそうな気がするので、これもそのままではどうもうまくいかない面があるのを論理的に感じる。

言語ゲーム的な考え方では、数学的な真理でさえもが、人間がそのような習慣を持っているからという、人間の主観の反映が世界を形作るということにすべての現象を持って行ってしまっているように感じる。確かに、人間だけが作っている「社会」というものの現象は、人間の主観の反映で成立しているような、言語ゲーム的に正しさが判断されている事柄が多いように感じる。しかし、論理の世界もそうであるかということにはどうもまだ納得しがたいものを感じる。

ソシュール的な言語のとらえ方も、主観と客観の乖離というデカルトが提出した問題の流れで見てみると、その一つの解決として提出されているようにも感じる。言語なしに、存在を五感で感じるだけでは、その存在は論理的思考の対象としては見出せないのではないかと思う。論理的対象にするには、その存在を言語で表現できるという必要があるような気がする。そして、対象を言語で表現できたとき、我々はその存在を、人間に対する認識の対象として客観的存在だと捉えているのではないだろうか。言語は、人間に対して、客観的存在を見せてくれる機能を果たす。これをソシュールが語っているのではないかと思う。

この言語の機能は、三浦つとむさんが「実践」という言葉で説明した概念に似ているような気もする。実践というのは、実際に人間が行動を起こし、行動の対象にすることで対象を認識していくことを指す。プリンの存在は、それを食べてみるという「実践」で確かめることが出来る。これは、板倉さんが語る「実験」概念にも通じるものだ。実験をすることで対象の存在が主観の中にもたらされる。決して目で見ることが出来ない、五感で直接感じることの出来ない原子というものの存在が、適切な実験によって存在そのものが確認できると考えるのが自然科学における「実験」という考え方だ。

客観的存在は、適切な方法を使えば主観に確実に認識できるものであるのか。それとも、存在そのものは決して知り得ない、カント的な「物自体」であるのか。それはまだ解決していない問題のように見える。言語ゲーム的な発想では、存在そのものはもはや問題にされず、「物自体」として語る必要もないものとして扱われそうな気がする。板倉さん的な科学の考え方では、科学として「仮説実験の論理」を経たものは、その存在も確実に認識されたのだと理解できるような気もする。存在の認識に神の力を必要としなくなったのは人間の進歩だろうと思うが、それはまだ解決していない問題のように見える。このように未だ解決されない根源的な問題を提出したデカルトは、その問題を解決した人よりも、その世界を広げる超越的な思考を展開しているという意味でより偉大なのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2008-09-21 11:46 | 哲学一般


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