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報道記事の形式論理的分析 1

インターネットで配信されている「「問題ない」太田農水相が辞任を否定 事務所費問題」(8月26日12時21分配信 産経新聞)という記事の内容を形式論理の観点から眺めて見ようと思う。形式論理の観点から眺めるというのは、そこに書かれている文章を「命題」として解釈してみようということだ。まずは全文引用しておく。


「太田誠一農水相の政治団体が秘書官宅に多額の事務所費を計上していた問題で、太田氏は26日、記者会見し、「問題は全くないと思っている」と述べ、辞任を否定した。
 町村信孝官房長官は26日午前、首相官邸で閣議前に太田誠一農林水産相に会い、この問題について説明を求めた。太田氏は「しっかりとやっている」と答えたという。
 この後、町村氏は記者会見で「政治資金の透明性確保はすべての政治家にとって大きな課題であり責任である。特に閣僚についてはより大きな責任があることは間違いない」と強調。その上で「事務所費の中にはいろいろな支出項目があり、秘書の自宅を事務所として届け出ていたからといって全部不正であるとは言い切れないのではないか」と述べ、太田氏を擁護した。進退については「そういうことをうんぬんする話ではない」と否定した。
 自民党の麻生太郎幹事長は26日午前、役員会後の記者会見で「個人事務所(の問題)なので説明責任は政治家個人に問われている」と述べ、太田氏自らが説明責任を果たすべきだとの考えを示した。
 一方、民主党の鳩山由紀夫幹事長は同日午前、都内で記者団に「臨時国会の開会前にお辞めになるしかないのではないか。福田康夫首相の任命責任も大きい」と述べた。」


まずはここから原子命題(複数の命題を結合したものではない)として取り出せるものを全部探し出す。以下のようなものが取り出せるだろう。





1 太田誠一農水相の政治団体が秘書官宅に多額の事務所費を計上していた。
2 太田氏は26日記者会見した。
3 太田氏は「問題は全くないと思っている」と述べた。
4 太田氏は辞任を否定した。
5 町村信孝官房長官は26日午前、首相官邸で閣議前に太田誠一農林水産相に会った。
6 町村信孝官房長官は太田誠一農林水産相にこの問題について説明を求めた。
7 太田氏は町村信孝官房長官に「しっかりとやっている」と答えた。
8 町村氏は記者会見で「政治資金の透明性確保はすべての政治家にとって大きな課題であり責任である。特に閣僚についてはより大きな責任があることは間違いない」と強調した。
(この8自体は単純な原子命題だが、括弧の中の主張は命題になっているので、命題が入れ子状態になっている。これは複合命題ではないが、入れ子になっているものも原子命題の形にしておくと次のようになる。
8-1 政治資金の透明性確保はすべての政治家にとって大きな課題である。
8-2 政治資金の透明性確保はすべての政治家にとって大きな責任がある。
8-3 特に閣僚についてはより大きな責任がある。)
9-1 事務所費の中にはいろいろな支出項目がある。
9-2 秘書の自宅を事務所として届け出ていた。
9-3 (その届け出が)全部不正であるとは言い切れない。
(この9-1から9-3までは、複合命題を作っている。これは、「全部」というような量化の言葉があるので、このままでは命題論理では表現できないので、後でもう一度考えてみる。)
10 町村氏は太田氏を擁護した。
11 町村氏は、進退については「そういうことをうんぬんする話ではない」と否定した。
(これはたいへんに曖昧な言い方で、町村氏が太田氏の辞任について「否定した」と解釈したくなるが、「進退について」否定したことになっている。これを国語的に解釈すると、進退については言わなかったという意味で「否定した」とも受け取れる。この曖昧な意味は、この命題の真偽を考えるときに影響を与えてくる。意味が確定しない命題は真偽が確定しないからだ。)
12 自民党の麻生太郎幹事長は26日午前、役員会後の記者会見で「個人事務所(の問題)なので説明責任は政治家個人に問われている」と述べた。
(これも命題が入れ子状態になっているので、入れ子の命題を取り出しておく。
12-1 (太田氏の問題は)個人事務所の問題だ。
12-2 その説明責任は政治家個人に問われている。)
13 太田氏自らが説明責任を果たすべきだ。
14 民主党の鳩山由紀夫幹事長は同日午前、都内で記者団に「臨時国会の開会前にお辞めになるしかないのではないか。福田康夫首相の任命責任も大きい」と述べた。
(これも入れ子状態の命題を取り出しておく。
14-1 (太田氏は)臨時国会の開会前にお辞めになるしかない。
14-2 福田康夫首相の任命責任も大きい。)


上に取り出した命題に関して、これが報道記事として述べられたものであるということから考えると、すべてが真である命題として前提することが出来るだろうと思う。もちろん誤報という可能性があるものの、普通はマスコミの記事は、事実性に関しては一定の信頼性があるものと前提しておく。

さて、上の命題の集合に関して、ここから複合命題を作る、あるいはいくつかの命題を組みあせて推論・論証というものが構成されるかを考えてみよう。まずは

9-1 事務所費の中にはいろいろな支出項目がある。
9-2 秘書の自宅を事務所として届け出ていた。
9-3 (その届け出が)全部不正であるとは言い切れない。

この3つの命題からは一つの複合命題が構成され、しかもそれが一種の論証として解釈できるものになっている。この論証は、この命題の形のままではその形式を取り出すことが出来ないので、∃(存在する)、∀(すべての対象について)という二つの記号で、この命題の内容を解釈してみる。

事務所費の支出項目をP1,P2,…、Pnというような記号で述語化する。P1xと書いたら、「xはP1という項目の事務所費である」という意味に解釈する。そうすると9-1の命題は次のように表現されるだろう。

  ∃xP1x<または>∃xP2x<または>…<または>∃xPnx

この命題は、P1からPnまでのいろいろな事務所費が、現実にはそのどれかが存在しているという意味になる。つまり、事務所費の中にはいろいろな支出項目があるという意味として受け取れる。

9-2に関しては、「秘書の自宅を事務所として届け出る」というものに対応する述語としてQを考えたいが、Pで項目を考えているので、それに対応させるために、

  P1 … 秘書の自宅を事務所とする支出項目
  Q1 … 秘書の自宅を事務所として届け出る

そして、最後にRとして「その届けが不正である」という述語を作ることにする。9-2と9-3をあわせて複合命題にすると、9-3は、「秘書の自宅を事務所費として届け出る」というQ1を前提としたときに、そのすべてが「不正というわけではない」と語る命題になっているので、記号化すると次のようになる。

  ∀x(Q1x<ならば>Rx)ではない

そうすると、9-1から9-3までの命題は、次の複合命題として解釈できる。

9 ∃xP1x<または>∃xP2x<または>…<または>∃xPnx
       かつ
  ∀x(Q1x<ならば>Rx)ではない

この命題が記号で表された述語の内容にかかわらず、形式的に常に成立するものであるなら、これを論証として解釈したときに妥当で正しい論証となる。果たしてそうなるだろうか。後半の命題はこのままでは意味が分かりにくいので、ド・モルガンの法則によって書き換えると次のようになる。

  ∃x(Q1<かつ>Rxでない)

これは日本語に書き換えると、「秘書の自宅を事務所費として届け出て、かつそれが不正でないようなxが存在する」というふうに読める。これが妥当な論証であるなら、太田氏の主張が正しくなり、それを擁護する町村氏の主張にも正当性がもたらされる。

しかし、9の命題は、形式論理で常に成り立つものではない。実際に後半の命題の解釈は、まさにそれが不正ではないかということが問題になっており、自明に正しいとは言えないからこそ問題になっている。命題の形式だけでは真理が確定せず、太田氏の具体的な事務所の問題として届け出が不正でないかどうかの判断がされなければならない。

町村氏の発言の前半の部分は、単に存在を語っているだけなので、これは事実として正しいものになることがすぐ見て取れるだろう。論理的にいつも成立するわけではないが、とにかく事務所費としていくつかの分類があれば、この発言は正しくなる。しかし肝心の後半部分の発言は、これが正しいかどうかは分からない。これが正しければ町村氏の養護は正当だが、それがどっちか分からないのに、それを前提にして正当化するのは言葉のごまかしであり、論理的には間違っていると言わざるを得ないだろう。この論理展開だけでは太田氏を養護し正当化することは出来ないのだ。

3の命題では、「太田氏は「問題は全くないと思っている」と述べた」という事実が語られている。ここでの事実は「述べた」ということが事実なのであって、「問題は全くない」ということの事実性は語られていないことに注意しなければならない。問題がないかどうかは、太田氏がどう思おうと、太田氏の思いとは別に(独立に)客観的に証明されなければならないことだ。だが、その証明になることは、この報道には一言も書かれていない。

この報道を見る限りでは、太田氏の釈明には、太田氏の行為を正当化するに足るような根拠は見出せないということだ。麻生氏が12の命題で語るように太田氏には国民が納得するような釈明をする説明責任があるだろう。そしてそれが出来ないならば、14で鳩山氏が語るように、太田氏はやめるしかないのではないだろうか。それは説明責任を果たしていないから、ということで論理的に導かれてくるように思われる。そして、もしそのような事態になり、太田氏辞任ということになれば、鳩山氏が語っているもう一つの命題のように、「福田康夫首相の任命責任も大きい」ということが正しい命題として帰結されるだろう。だが、これが論理的な帰結であれば、それを否定するためにも、福田首相は太田氏を絶対に辞任させないという論理的強制が働くかもしれない。任命責任を否定するためには、辞任を否定しなければならないという、形式論理でいうと対偶の法則が働くのである。

今後の報道で、太田氏が説明責任を果たすのか、福田首相が論理的強制によってあくまでも辞任させないという方向に行くのか、それに注目したいと思う。
by ksyuumei | 2008-08-26 17:50 | 論理


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