僕にとってマルクス主義批判の内容は、ずっと長い間「官許マルクス主義批判」だった。それは三浦つとむさんが展開していた批判で、共産主義政党などの権威あるものが主張していた、権力からのお墨付きをもらったマルクス主義に対する批判というものだった。細かい内容には立ち入らないが、それは論理的にいえば、権威あると言われている正統的マルクス主義がいかにマルクスを「誤解」しているかという批判だった。マルクスやエンゲルスの主張に対する理解の間違いを指摘するという形での批判だった。
三浦さんはレーニンや毛沢東の弁証法に対する理解を批判していた。三浦さんには『レーニンから疑え』という著書があるけれど、当時誰もが正しいと信じて疑わなかったレーニンでさえも間違っているという批判はそれを発表するだけでもたいへんだった。三浦さんがスターリンの言語論を批判したときは、スターリンは当時の最高権威であり、言語学者でもないスターリンが語った言語に関する理論でさえも人々は正しいと信じて疑わなかったようだ。 後にスターリンはソ連でも批判されてその偶像はいっぺんに壊れた。今ではことさらスターリンが間違っているというのは声を上げて言うことではなく、ごくありふれたものとして受け止められているだろう。だが当時の雰囲気から言えば、キリスト教徒に向かってイエスが間違っていると指摘するようなものだったのではないかと思う。それは批判すること自体がけしからんことだと思われたようだ。 三浦さんは、このようにマルクスやエンゲルスを引き継いだ官許マルクス主義に対しては強い批判を行っていたが、その出発点となったマルクスやエンゲルスそのものに対しては批判していなかった。そのことを指して、「レーニンから」ばかりでなく、「マルクスから」も疑わなければならなかったのではないかと指摘する人もいた。 これは論理的にはもっともだと思うものの、当時は難しかったのではないかと思う。反共主義の側がするマルクス主義批判にどうも説得力がなかったせいもある(それはマルクス主義が批判する立場からの利益を代表しているように見えたので、自己の利益を守るための批判をしているように見えたからだ)が、僕も長い間、マルクスとエンゲルスの主張自体は正しいと思っていた。少なくとも、当時の最高の知性の持ち主であるマルクスとエンゲルスは、まだ現れていない未知のことに言及することは出来なかっただろうが、当時知られていることのほとんどすべてについては正しい見解を持っていたのではないかと感じていた。 それが、マルクス主義が時代を支配していたことが終わりを遂げると、それを相対的に眺める視点が持てるようになった。マルクスとエンゲルスといえども間違えることがあるだろうというごく当たり前の認識を持てるようになった。それは後の時代に生きているからこそ見えてくる、いわば今の時代の特権だという感じがする。 マルクスとエンゲルスを正しいものと前提し、それ以後のレーニンからの言説を問題にするのは、数学で比喩的に考えると、マルクスとエンゲルスという公理から導かれるレーニン以後の定理が本当に証明された定理であるかどうかを問題にしていると解釈できる。レーニンが言っていることが正しいのは、マルクスとエンゲルスの公理から論理的に正しく導かれているということが確認されるときだ。それが正しく導かれていないときは、官許マルクス主義として三浦さんに批判された点が指摘されるのだろう。 これがちょっと前までの時代だった。しかし、今は不動の公理だと思われていたマルクスとエンゲルスの言説そのものが、実はたくさんある中の一つに過ぎないのだと気づかれるようになった。これは、ユークリッド幾何が、空間に対する不動の真理のように思われていた時代から、いくつかある空間の中の一つを特徴付けるだけの、ある意味では「恣意的に」選ばれた公理を基礎にしているに過ぎないと気づかれたことに通じるようなものだ。異なる公理を選べば、その空間は非ユークリッド幾何を満足するようなものになる。 現代社会を理解するのも、マルクス主義ではない公理を採用すれば、マルクス主義が帰結する結論と違うものを導く論理が展開されるだろう。違う公理の元では違う定理が成立する。マルクス主義の公理では「歴史的決定論」というものがある。歴史的必然性に従って、歴史はある発展の方向を持っており、それは必ず実現されるというものだ。これは現実的な根拠は何もないというようなことを仲正昌樹さんが書いていた。 現実的な根拠はないのであるから、これは恣意的な公理と言っていいだろう。だからこれを否定したもう一つ別の公理を持った世界が存在しうる。これが構造主義の考え方であり、構造主義では、今・現在という時間では、社会に存在する目に見えない構造が人間の行動を支配していると考えるが、この構造がどのようにして生まれ、どのように発展していくかと言うことについては何もはっきりしたことは言えないという姿勢をとる。このような前提を設けると、マルクス主義が帰結するものとは全く違う結論がその世界では導けるだろう。 宮台真司氏氏は、「連載第一回:「社会」とは何か」の中でマルクス主義を無政府主義とともに「社会学とは長らく潜在的な敵対関係にあります」と語っている。どこが敵対関係にあり、そのためにどこを批判的に捉えているかというと、ここには次のような記述が見られる。 「無政府主義は、国民国家レベルの中央政府を否定し、国家の秩序維持機能を中間集団(家でもなく国家でもない中間規模の地域集団や職能集団)のネットワークに置き換えようとする思想です。個々人の顏の見えない大規模さが不透明な暴走をもたらすというわけです。 マルクス主義は、恐慌を含めた社会の不透明な暴走は、市場の無政府性と、それを自らの利権ゆえに維持したがるブルジョア階級が支配する国家という暴力装置がもたらすものだと考え、プロレタリア独裁による市場の無政府性克服が処方箋だ、と考える思想です。 これに対し、社会学では、エミール・デュルケームが「国家(中央政府)を否定しない中間集団(職能集団)ネットワーク)」を構想し、『社会分業論』を執筆します。この発想は、今もアンソニー・ギデンズらの「第三の道」論に、そっくり受け継がれる伝統です。」 ここで語られているマルクス主義の公理は「恐慌を含めた社会の不透明な暴走は、市場の無政府性と、それを自らの利権ゆえに維持したがるブルジョア階級が支配する国家という暴力装置がもたらす」というものだ。この公理が成立しないのだと考えることがマルクス主義批判になる。これを公理だと捉えるのは、これが証明できないことだと理解するからだ。証明できることなら、他の公理から導かれる定理になるが、証明できないことは公理として前提するしかない。 社会学では、国家という暴力装置を暴走の元凶としたり、ブルジョア階級が社会に貢献しない自己の利益だけをむさぼる人間だとは捉えないようだ。そのような感情的な価値観を排除して、あくまでもメカニズムだけを求めるのが社会学ということになるのだろう。そのため、社会学の前提はマルクス主義と違ってくる。比喩的に言えば公理が違ってくる。だからそこから導かれる定理も違ってくる。 宮台氏は若い頃からマルクス主義には批判的だったらしい。その情緒的な側面に疑問を抱いていたのかもしれない。かつてのマルクス主義が支配していた時代は、論理的な正しさよりも、情緒的な志の高さの方が、命題の正しさの判定基準として上だったような気もして、官許マルクス主義の理論的な批判とともに、それによって指導される運動の情緒的側面には僕も疑問を持っていた。志が美しければそれで正しいことが出来るとは限らないからだ。 マルクス主義を相対的に眺めることが出来るようになると、レーニン以後のマルクス主義者がすべて間違いを犯しているということが気になってくる。公理としてのマルクスとエンゲルスは正しいのだが、それを解釈する人間がすべて間違っているとすると、論理的にはどんなことが帰結されるだろうか。一つは、レーニン以後のマルクス主義者はみんな馬鹿で能力が低かったから間違ったのだという解釈だ。しかしこれは採用することが出来ない解釈だ。たとえ間違っていようとも、レーニンや毛沢東は、マルクス主義陣営の中では最も優れた人間として評価できるし、実際に他の陣営を交えた当時の最高の知性を捜してもトップクラスに入る人物ではないかと思う。彼らの間違いが自分にも理解できるのは、僕が単に後の時代に生きているからというだけに過ぎない。 そうするともう一つ残る解釈は、そもそもマルクスやエンゲルスの言説の中に間違いが含まれていたので、それを忠実に理解しようとしたそれ以後のマルクス主義者がみんな間違えてしまったのだというものだ。前提の間違いは結論の正しさを保証しない。間違った結論であっても論理的に帰結してしまう。この論理の法則によってみんな間違えたのではないだろうか。 ではマルクスとエンゲルスの中に含まれていた原理的な間違いとは何だったのだろうか。それは仲正昌樹さんが『知識だけある馬鹿になるな』と『<宗教化>する現代思想』の中でいくつか指摘していることがヒントになるのではないかと思う。この中で仲正さんが語っているマルクス主義のおかしさから次のようなものを連想した。 ・二項対立図式による論理 物質に対する観念の先行を主張する観念論の批判において、それをひっくり返しただけの物質の先行を主張する二項対立図式による思考は、それを決定する確実な根拠がないので、無理矢理に決定すれば形而上学的になる。ア・プリオリに前提するしか無くなる。形而上学や観念論を批判しようとする唯物論が、二項図式にはまってしまうと自らが形而上学になり観念論になってしまうという背理が起こる。三浦さんは、官許マルクス主義のこのような点を批判していた。問題の元凶は「二項対立図式」による思考にあると仲正さんは指摘する。 ・プロレタリア独裁という選民思想 プロレタリアという存在は、物質的存在と直接触れる労働者であり、剰余労働を搾取して観念の世界に住んでいるブルジョアジーよりも現実を正しく認識できるという前提は、よく考えると論理的に証明できるものではない。だからこれも無前提に正しいと信じるしかないようなものだ。これはユダヤ教の選民思想に通じるようなものに見える。ここから導かれるのは、選民であるが故の無謬性というものではないだろうか。実際には人間の世界で無謬のものなど無い。だから、無謬性を信じるには誤謬を隠蔽しそれを無理矢理否定するということしかないだろう。プロレタリア独裁は、全体を把握できない大衆に対して、それを把握できる前衛としてのプロレタリアが指導するという論理的根拠はあったものの、無謬性神話を生み出すことによって、その弊害の方が現実化してしまったのではないだろうか。 このほか、次のようなものも頭に浮かんできたが、これは次のエントリーで詳しく考えてみようと思う。 ・マルクス主義の「疎外」概念の形而上学性 ・イデオロギー論の宗教性(反証不可能性)…マルクス主義の予測が実現しないのは、対立するイデオロギー勢力の妨害によるものだというもの ・ブルジョアジーとプロレタリアの敵対的矛盾による弁証法性…この対立する勢力は、敵対的矛盾を形成しているのであれば、どちらか一方が排除されて克服されなければならない。それは本当に正しいか?
by ksyuumei
| 2008-08-24 14:51
| 雑文
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