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理解の道具としての形式論理 7

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」で語っている「権力反射」と「権力接続」という概念は、全体の論理構造の中ではどのような位置を占めているのだろうか。この概念を運用して、その中に含まれている意味を引き出したとき、政治システムというものを捉える理論全体ではその論理的帰結がどのような意味を持ってシステム理論というものを見させてくれるのかを考えてみたい。

政治システムというのは、そもそも政治的決定といわれているもの(民主主義体制では多数者の意志が決定される)に社会の大多数の人々が従う現象のメカニズムを説明するものだった。人間には意志の自由があるにもかかわらず、決定に反する意志を持つものは少なく、大部分が決定に従うことによって社会は安定と秩序を保つ。これはシステムとしてある種のフィードバックを繰り返すことで、その秩序を保っていると考えるのがシステムの発想だ。

権力という概念は、この人間の意志に働きかけて、決定と外れるような意志を持とうとすると、それに対して制限をするような圧力として機能するものと考えられている。というよりは、そのような現象が見られたとき、その機能を発揮するものを権力と呼んでいるといった方がいいだろうか。そうすると、システムの中のループを構成し、フィードバックの道筋を作るものが「権力反射」および「権力接続」というものの概念と考えられるだろうか。この概念から引き出せる論理的な展開は、権力というものが個々の人間存在に働きかける個別的なものとしてまず抽象されていたのだが、それを社会全体にループを広げる契機として設定できるということが概念から引き出せるのではないだろうか。




権力というものが、服従者と権力者という2者の関係だけであるなら、それはそのままでは社会全体に広げることが出来ない。それを3者の関係にして、しかもその関係がさらにもう一人を加えて3者関係が延びていく形を設定し、それによって権力構造を社会全体に引き延ばしていると考えられる。社会成員の全体が、ある種の権力に従い、政治的決定に従うという現象をうまく説明するメカニズムがここで提出されているように感じる。

権力反射の場合は


1 求心的権力反射鎖
2 直線的権力反射鎖
3 委任的権力反射鎖


という3種類の違いが考察され、権力源泉が集中するか分散するかという点が注目された。この「集中」と「分散」の違いは、権力に従った行為という「回避選択」においてはどのような影響を与えるだろうか。権力が一者に集中すれば、その権力は強大なものになるのではないかと思う。逆に分散すれば、個々に分散した権力は弱まるのではないだろうか。社会全体として考えた場合、強大な権力が存在した方が、それによって構造化されたシステムは安定するのではないかと思う。社会全体としては、集中する権力を求めて安定を図るという傾向があると予想できるのではないだろうか。

さて権力反射の場合は、「「権力を可能にする権力」の為の権力源泉という反射」というイメージから反射という言葉が使われている。つまり、「権力反射」には、その概念の中にすでに一者に集中する権力というイメージが含まれている。その権力が反射して、反射させる者にも権力をふるう源泉をもたらすという考えだ。

1の「求心的権力反射」では、権力者Xが直接すべての服従者に権力を及ぼす。権力の集中は容易に見て取れる。これが2の「直線的権力反射」になると、Xが直接権力を及ぼすのはAだけになるので、権力の源泉はそこで止まってしまう。この場合は権力源泉の集中はなくなる。

3の「委任的権力反射」はちょっとイメージするのが難しい。Xが直接権力をふるうのはYに対してだけだ。2と同じように一者に対してだけしか権力を使わない。それなのに、この3も権力源泉は集中していると考えられている。2との違いは、権力を及ぼす対象がYだけになるということで、Yに対する権力源泉はXが持っていると考えられる点だ。

2では権力の直線的つながりが次のようになっていると考えられる。

 X → A → B → C → D → …… Y

ここで、XはBにAに従うように権力をふるう。Xの権力がAに反射する形でBにふるうことになる。そして、それ以後は、Cに権力をふるうのはAになり、権力を直接及ぼす権力者がずれていく。Cに対してはもはやXはもう権力を及ぼしていない。だから、ここでの権力源泉はXに集中してこない。だが、3ではすべての権力者がYだけに権力を及ぼすので、この権力は最終的に頂点にいるXに集中すると考えられるのだろう。

このように考えられることから、「重要なのは、求心的権力反射鎖と委任的権力反射鎖だけを素材として用いた権力連鎖だけが、権力源泉を集中させられることです」と語っているのではないかと思う。政治システムの安定を意図的に考えるなら、1と3の権力反射の構造を構築することを考えなければならないということではないかと思う。

このような考えから引き出される「権力連鎖の形成戦略」は「組織の構成」であるとも語られている。組織における権力反射が、1と3のように「求心的」か「委任的」かで行われるように設定すれば、そこには権力源泉の集中が見られ、権力としては強大で安定したものになると言えるのではないだろうか。これは概念から引き出される論理的帰結であるように思う。

ワンマン経営の会社は、権力源泉がそのワンマンに集中し、すべての決定をその強大な権力者が命ずるような形になっているように見える。これはかなり強大で安定した権力構造を作っているのではないだろうか。1の「求心的権力反射」のように見える。

「委任的権力反射」の構造は、役所の仕事などがそれに近いのではないかという感じがする。役所では直接の上司であってもその命令は、行政のトップから下りてくるものを基礎にして個々の人間は受け止めるのではないだろうか。上司が言うから従うのではなく、それに従うことが制度的に決まっているので従っているという感じがする。上司は、トップがすべての仕事を命ずることが出来ないので、具体的な仕事に関してその権限を委任されて命じているという感じがする。

役所では、末端にいる人間が独自の判断で行動することは出来ない。それは上司といえども同じだ。責任を負担して決定権を持っている人間はごくわずかだ。ほとんどの人間はその権限を委任されてルールに従って仕事をしている。権力の及ぼす影響は非常に安定しているだろう。誰も逆らうことが出来ないほど強大な権力が集中していると考えられる。

この権力の集中は、いいとか悪いとかいう価値判断を抜きにして、このようなメカニズムで動いているのだということを理解することが重要だ。ワンマン社長などというと、何か悪いイメージがあるので否定したい気分も生まれてくるが、権力としてはこれが安定したものになるということは確かだということを確認することが大事だろう。それが現実に何か悪い結果をもたらすようであれば、権力を弱める工夫をどこかでするという発想になるだろう。

2の「直線的権力反射」では、権力が集中しないので、ある意味ではこれが権力を弱める働きを持つと考えられる。権力者Xが直接権力を及ぼすことが出来ない構造になっているので、直線の途中にいる人間は、自らの独自の権限で自由に振る舞うという余地が残されている。このような直線的な位置にいる下位の権力者が有能な人間であれば、その自由裁量はむしろいい方向へつながっていく可能性がある。すべてを一人が決定しているときは、その決定に間違いがあるときにそれを修正することが出来ないが、権力が分散していればその間違いを修正する余地が残される。

重大な間違いを避けるための装置として権限の分散をしているというのは、具体的な仕事の現場でも見つかるのではないかと思う。これを捜してみるのもおもしろいのではないかと思う。

権力を分散させるメカニズムとしては、「権力接続」という概念もそのようなものを、すでに概念の中に含んでいるものだと思われる。これは、権力源泉を持っているもの同士が、その権力源泉で結びついてネットワークを作るという形のものだった。お互いに権力源泉を持っているので、直接服従者に対するときはその権力源泉を使う。だから、頂点になるようなXにすべての権力源泉が集中することがない。これは反射の場合と同様に次の3つが設定される。

1 求心的権力接続鎖
2 直線的権力接続鎖
3 委任的権力接続鎖

これも価値判断抜きに受け止めれば、権力の集中が強すぎて困る場合には、それを弱める働きを持つものとして有効利用できるだろう。社会の中での具体的な権力現象に対して、そこに見られるものが、反射と接続にそれぞれ3つずつ見られるどの鎖に当たるのかを考えてみるのもおもしろいかもしれない。それぞれが欠点も長所も持っているし、反対に作用する面もあるので、一方を弱めるために他方が利用できるということがあるかもしれない。

宮台氏はこの講座の最後を「単純な原初的社会では、政治的機能の中核は、権力の人称性の操縦戦略によって担われます。複雑な社会になると、それに加えて権力連鎖の形成戦略が──従って組織の構成が──重要な位置を占めるようになります。そのようにして全域的な拘束がもたらされます」と締めくくっている。何かまとめとしては中途半端な感じがして、まだこの後に続くような感じもある。『権力の予期理論』には次のようなまとめが書かれている。この方が政治システムに関するまとめとしてはすっきりするような感じがするので最後に引用しておこう。


「我々はもはや、国家=悪、という短絡的な議論には(「必要悪」論も含めて)つきあうことは出来ない。こうした十把一絡げの議論では、権力の許容できる型/許容できない型、の差異についての議論に入れないからである。すでに見たように、権力は、源基的な形では、日常的な相互行為においてきわめて頻繁に--権力という「名前」では意識されないにしても--生じている。そしてその普遍的な体験構造を基礎に、権力は、反射化され/連鎖形成され/社会化され/公式化され/<政治化>され…、そしてそれらが翻って日常的な相互行為の基礎になる様々な信頼を形成し、それを元に行為が生み出され、それを源泉にして権力が設定される。
 そうした形で社会システムの全体が編成される。その事実自体には例外は今までもこれからもあり得ない。このような機能連関の総体を視野に納めない限り、権力に関するどんな思考も短絡的であると言わざるを得ないのである。」
by ksyuumei | 2008-08-23 09:55 | 宮台真司


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