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不可能性の証明

大学生の頃に夢中になって考えていたパズルに次のようなものがあった。5行5列の正方形の形に並んだ黒い点がある。

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この黒点を一筆書きのようにして線で結ぶのだが、そのときに縦と横には線を引けるのだが、斜めに引いてはいけないという制限を設ける。上のような正方形の形に関しては解答は簡単に見つかる。たとえば次のようにすればよい。

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これは、渦巻き状のようにつないでも斜めに引いてはいけないという制限の元で一つにつながった線で結ぶことが出来るだろう。これがパズルとして難しさを持っていたのは、4行目の5列目の点が欠けていたときに、同じような制限で線で結べというような問題になっていたからだ。次のような形をしていた。

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上の図で×で示したところを避けて、縦と横の線だけですべての点を結ばないといけない。ちょっと試してみると分かるのだが、点が一つ欠けただけでこのパズルはとたんに難しくなり、どうやっても出来なくなる。そこで、これはどうやっても出来ないのではないか、つまり不可能なのではないかと思いその証明をしようと思って当時ずっと考えていた。

これは、点を線でつなぐという形で考えていると難しいが、同じ構造を持つ図形で、縦と横の線で結ばれるということがもっと見やすくなるものに変換するとその不可能性が簡単に見えてくる。上の図の点を、正方形に変えてしかもそれを市松模様にして眺めて見る。下のような図を考える。

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   ■ □ ■ □ ■

   □ ■ □ ■ ×

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これを市松模様にして考えると、縦と横のつながりというのが、黒と白の正方形のつながりとして構造化される。縦か横のいずれかの正方形を線で結んでやれば、必ず違う色の正方形とつながなければならなくなる。点で考えていたときには見えなかった構造が、正方形の市松模様にすると見えてくる。

さてこのようなつながり方を考えると、必ず違う色が交互に出てくるのだから、もし一筆で結べるのなら黒と白の正方形は、その総数が同じであるかどちらかが1個だけ多いという条件を満たさなければならない。もしすべての正方形をつなぐ一筆書きが見つけられるなら、そのような条件を満たさなければならない。そうでなければ正方形が余ってしまう。そこで黒と白の正方形の個数を数えてみると上の図では次のようになっている。

   □ … 11個
   ■ … 13個

これでは、どのようなつなぎ方をしても、一筆で書くなら黒が1個余ってしまう。実は上の×で消してしまった場所には白い正方形が入っていたのだ。だから、最初のすべての点が並んでいた図形では、それを黒と白の正方形にすると、黒の方が1個多いという関係で並んでいたことが分かる。だから、問題の箇所が欠けていなければ、元の正方形の図ではすべての点を結ぶ解答が発見できたわけだ。しかし白い正方形を1個減らしてしまったので、どんな書き方をしても黒い正方形の箇所の点が余ることが論理的に帰結される。

「どんな書き方をしても」ということは実際に確認することは出来ない。無限に多くの書き方を全部確かめることは人間には出来ないからだ。だから、上のパズルを現実に具体的に試してみて、その不可能性を主張することは出来ない。せいぜい試してみた範囲では出来なかったということが言えるだけだ。この経験だけで、このパズルが不可能だという主張は出来ない。もしもっと能力のある人間だったらその解答を発見するかもしれないという可能性は、試してみてだめだったからということからは消すことが出来ないのだ。

しかし、論理的な帰結が求められると、もう試してみることもなく、このパズルは誰がやっても出来ない不可能な問題だということが主張できる。我々はどうして論理の結果をこのように100%信頼することが出来るのだろうか。誰がどんなに努力しても出来ないというのを最期まで見届けることなく、論理だけの主張を見てそのことが正しいと判断できるのだろうか。

また、このパズルは実際に誰がやっても出来ないという結果を生み出す。もしかしたら誰かが成功してしまうかもしれないという可能性におびえることなく、絶対に出来ないのだと自信を持って断言することが出来る。この現実に持っている有効性というのも不思議だ。言葉の法則に過ぎないと思われている論理が、なぜ現実にも確実な有効性を持っているように見えるのだろうか。

上の不可能性の証明は、もしパズルの解答が得られたならということを前提として考えると、黒い正方形と白い正方形の数がたかだか1つ違いでなければならない、という仮言命題を元にして考えられている。仮言命題であることをはっきりさせて書けば、


「パズルが解答できた」 <ならば> 「黒と白の正方形の数は同じか一つ違い」


この前件に当たる「解答できた」ということが、実は絶対に出来ないということが証明したいことだった。つまり、この前件が絶対的な偽だということを示そうというのが不可能性の証明だった。そのためにとった方法は後件の方の正方形の数が「同じでもない」し「一つ違いでもない」(実質的な内容は2つ違いというもの)ということを示すことだった。後件が否定されると、前件の否定が導かれる。これは元の仮言命題の対偶と呼ばれるもので次のように表現される。


「黒と白の正方形の数は同じか一つ違い」ではない
     <ならば>
「パズルが解答できた」ではない


元の仮言命題が正しければ、この対偶も必ず正しくなる。従って、この対偶から不可能性の主張が引き出せるということになる。このパズルの不可能性は、実際に確かめてみても正しいことが実感されるが、確かめなくても正しいということが主張できる根拠というものが僕には不思議な感じがする。その論理に対する絶大な信頼感はどこから生まれてくるかというのが。

また、元の仮言命題で「パズルの解答が出来た」という仮定をして仮言命題を導くのだが、実際にはこの仮定は否定される。パズルの解答は出来ないのだ。現実には出来ないことを仮定して、出来たならばこうでなければならないという思考を展開していくのがこの不可能性の証明における論理だった。

元の仮言命題の前件は最後には否定されて常に偽になる命題であることが確認される。そうすると、命題論理的には、最初の仮言命題は前件が偽であるから形式的に真理となる仮言命題として解釈される。前件が偽になる場合は、仮言命題として真理値を真に割り当てるのに違和感を感じるが、この場合は、元の仮言命題が仮言命題として真であってくれないと、その対偶が真であることを主張できない。対偶が真であるという論理法則にとっても、仮言命題の前件が成り立たない(偽である)時に形式的に仮言命題全体を真とするのは、論理の構造からそうでなければならないという要請として導かれるものとなるのだろう。

上の証明は一種の背理法としても解釈できるかもしれない。背理法の仮定は「パズルが解答できた」ということで、そこからは「正方形の個数が白と黒とではたかだか1つ違い」であるということが帰結される。しかし、現実の条件としては、「2つ違い」であるということが導かれる。この両者に矛盾が生じていると受け取ると、ここに背理法が成立して仮定を否定することが出来ると言える。

この背理法というのは便利な証明法で、仮定から導かれることと矛盾するようなものが見つかれば仮定を否定できるという論理だ。ゼノンが運動の存在を仮定してパラドックスを導いたように、矛盾を引き出すことでその仮定を否定することが出来る。

現実に決して両立しない事柄があれば、それは形式論理的な矛盾になり、それは絶対に現実のものとはならない。形式論理的な矛盾は現実には存在しない。もし敵対的矛盾というものが形式論理的な矛盾と重なるものであれば、それは現実には存在しない。それが現実に存在しているように見えるのは、実は敵対的矛盾として受け取っていたものが必ずしもそうではないということになるかもしれない。僕は、敵対的矛盾という概念そのものがどうもうさんくさいものに見えるので、そのような発想はやめた方がいいのではないかと感じている。そのようなものが見えるときは、実は背理法が使えるのではないかと思った方がいいのではないかと思う。

論理はア・プリオリな真理のように見えるのに現実に有効性を持つのはなぜか。それは現実と論理を独立したものと考えると理解できなくなりそうな感じがする。両者は独立しているのではなく、論理という言葉が現実を合理性という属性を持ったものとして切り分けているのではないかという感じがする。現実はありのままに受け止めるだけなら混沌としているけれど、論理という枠でそれを解釈することで論理に従ったことは絶対に実現するという性質を持ったものとして現実世界を再構築しているのではないだろうか。不可能性の証明をしたものが現実にもその通りに不可能だということは、そのようなつながりがなければ言えないのではないだろうか。
by ksyuumei | 2008-08-22 23:24 | 論理


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