今回宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」の中で取り上げるテーマは「権力反射」と「権力接続」という概念だ。これはかなり複雑な概念で、しかも高度に抽象的なものだ。それゆえ理解をすることがたいへん難しい。
この概念は「権力源泉の社会的配置」を考察するための道具なのだが、権力を可能にする何らかの圧力をもたらす力であるところの「源泉」というものが、社会においてはどのように複雑に絡み合っているかで、その権力が人々に「回避的選択」を選ばせるという効率に関係してくる。強大な権力の源泉において、その力が「反射」するというニュアンスと、「接続」するというニュアンスがどう違うかを理解し、それが社会の成員という大多数の人々の間でどのようにつながっていくかという複雑さをイメージ出来なければならない。それが出来たとき「権力反射」と「権力接続」の概念が理解できたと言えるだろう。 さて「反射」というイメージで最も分かりやすいものは鏡による光の反射のような現象だろうか。このとき我々は「反射」という言葉で何を表現しているだろうか。光は障害物がなければまっすぐ進む性質を持っている。だが鏡に当たった光はそこで鏡によって進む方向を変えられる。この進行方向の変化ということが「反射」という表現のニュアンスで大事なものになるだろうか。 権力での「反射」というのは、ニュアンスとしては、ある方向から来た権力がその圧力を受ける服従者に対して、その方向ではない別の方向に権力の源泉が変化していったときに「反射」という感じが生まれるような気がする。宮台氏は「Xがjに従うようにiに命じる」ということで表現している。これはiにとって直接圧力を感じる権力者はXなのだが、その権力の方向がjに従うように命じられることでXからjへと変化していっていると考えられる。この3者の関係が「権力反射」の基本で、これが同じ構造を持ちながら社会成員の全体へと広がっていく。このとき権力のネットワークによって社会は安定と秩序を持つと考えられる。この広がりはかなり複雑な結びつきをイメージしなければならない。 まずは「権力の方向の変化」というものを「反射」のニュアンスと捉えて、もう一つの「接続」の方を考えてみよう。「接続」の表現は、何か二つのものをつなぐときに語られる。何かある接点になるものが媒介となって、二つのものがつながっているというイメージだ。電気製品をコードでつなぐときなど、そこには電流の流れが出来、それによって電力や音声・映像の情報などが二つの機械の間を流れることになる。「権力接続」といったときは、その接点として権力が媒介になる。権力によって何がつながれるのか。つながれる実体は権力者と服従者という関係にある2者になる。そして流れるのはその権力による圧力によって選ばれる「回避選択」の現象になるのではないだろうか。 「権力接続」に関しては、宮台氏は「Xがiを従えるようにjに命じる」と表現している。ここではXが権力を行使して圧力をかけているのは、「反射」の時と違ってjの方になっている。Xはiに対しては権力を行使していない。圧力をかけていない。iに対して圧力をかけて権力を行使するのはjの方になる。Xが持っている権力がjの持っている権力を媒介としてiに働きかける。権力が「接続」という関係を持っているニュアンスがここにはある。 「反射」と「接続」を比較してその違いを考えてみると、「反射」の場合はXという一人の権力者が強大な権力をiにもjにも及ぼしていて、「権力源泉」が集中していると見られる。それに対して直接iに対して権力の作用をもたらさない「接続」においては、Xもjも権力源泉を持っていることになるので、権力源泉が分散しているように見える。この違いが「権力源泉の社会的配置」に影響を与えてくる。ここで定義された「権力反射」と「権力接続」の概念が、その概念に含まれた意味によって社会ではどのように配置されるかということを論理的に引き出せるようなものになる。この抽象的に定義された「権力反射」と「権力接続」の世界は、演繹によってその構造が把握できるような数学的な世界になるわけだ。 「権力反射」に関してその概念から演繹される命題をいくつか考えてみよう。このとき、上の単純な概念だけでなく、いくつかの前提が置かれているように宮台氏の文章からは読み取れる。まず権力主題として何が要求されているかといえば「jに従う」「jに従わない」という二項対立的な選択肢が前提されている。この選択肢が二つしかないことで、「jに従わない」という選択を選べなければ「jに従う」ということを選ばざるを得ないという「回避選択」を設定することが出来る。 強盗と被害者の場合の選好構造と予期構造においては、被害者が自らの行為を選ぶ場合として「金を出す」「金を出さない」という二項対立的な選択肢を設定していた。これが、「権力反射」の場合は、「従う」「従わない」という行為の選択にあたる。それでは強盗の行為だった「撃つ」「撃たない」に当たる予期構造は、「権力反射」の場合にはどうなるだろうか。 これは基本的には「権力主題が任意化されて」いると宮台氏は語っている。「jが何を言っても従えとiはXに命じられて」いると前提している。iはjの命令を拒否することは出来ず、何を命令されてもそれに従うという前提で「権力反射」が考えられている。ただ実際の論理の展開においては、これが任意であるというだけではなかなか考察が難しいだろうと思う。そこで、任意性にある範囲を設けて、何を命令するかを具体的に考察できるように限界を設定するという前提を置いて、これを「権限」と呼んで論理の展開が発展的になるように考えられている。 この「権限」の範囲ではjがiに命じることは,iにとっては合理的な正当性が無くとも、「Xによって「正統化」されて」いると考えられる。Xという権力者が単に力で押さえつけるだけでなく、信頼によってiと結びついているなら、この「正統性」は自発的にjの命令に従う気分をiの中に生むだろう。この場合は嫌々ながら選ぶ「回避選択」ではなく、自ら進んで「回避選択」の方を選ぶという、ちょっと形容矛盾を感じるのだが、納得して権力に従うという現象が見られるのではないかと思う。 さて3者の間の単純な「権力反射」は以上のように考察できるのだが、これが他の反射と結びついて社会の中の大多数と反射によって結びついている権力現象はどのように理解されるだろうか。この複雑な結びつきをうまく把握するような便利な方法はあるのだろうか。 この結びつきが延びていく様子を鎖の比喩として、宮台氏は「権力反射鎖」と呼んでいる。これに3種類の違いを見て把握することで、社会の中に見られる複雑な権力反射の結びつきの全体像を把握しようとしているようだ。これは社会の中に見られる特殊性を持った「権力反射鎖」の現象を、その特殊性を捨象してしまって、とりあえず3種類だけが見られるようなモデル的世界を構築して、その世界の中だけで論理展開をしてみようという発想ではないかと思う。そのようにして抽象的な全体像を把握して、このめがねで現実を見直すことで複雑性によって曇らされていた世界の像をよりよく見ようという意図があるのではないかと思う。 さて、その3種類は次のように呼ばれる。 1 求心的権力反射鎖 2 直線的権力反射鎖 3 委任的権力反射鎖 これらの反射鎖の理解も、まずはそのニュアンスを理解した後に正確に論理的な定義の理解に努めてみよう。「求心的」というのは、何かが中心にあってその周りにそれぞれの要素が配置されているというニュアンスがある。権力を考察しているのであるから、この中心に配置されているものは権力源泉が集中しているXと呼ばれている権力者だと考えられるだろう。 中心にいるXは、そこからすべての成員に対して権力を及ぼしており、それが反射してXでない人間が権力を行使するという構造になっている。誰が権力を行使しようとも、その権力の「正統性」はXに負っている。ここで宮台氏は、「決定が流れる」という言葉を使っているが、このニュアンスが今ひとつつかみにくい。Xが命令しようとしている事柄を「決定」と呼び、それをXが次の人間に命令して、その次の人間がまた次の人間に命令していくということを「決定が流れる」と呼んでいるのだろうか。流れを図示すると次のような矢印で表現できる。 X → A → B → C → D → …… このとき、A,B,C、D…のすべてにXの権力が直接及んでいる。それぞれ上位のものに従うようにXが直接命令している。直接命令しているということから、Xの命令が下位の権力者を流れていくと演繹されているのだろうか。 「直線的」というニュアンスは、Xが円の中心にいるようなものではなく、直接権力を及ぼしている相手は直線的につながれている3者の間だけで、その3者の間の権力反射が鎖のようにつながっている構造として考えられている。上の矢印の流れの図を使って考えれば、Xが従うように命令して権力の反射を起こしているのはBだけであり、XはBがAに従うように命令するが、C以下に対してはXは直接命令はしない。 CにBに従うように命令するのはAであり、A,B,Cの3者の間で今度は権力反射が起こっている。これが直線的につながっているというイメージの「直線的権力反射」だ。これは「決定は流れる」けれども「頂点Xへの権力源泉の集中はない」と宮台氏は語っている。Xが直接権力を行使しているのはA,Bだけであるから、「集中はない」というのはその定義から導かれるだろう。「決定が流れる」というのは、どのようにして導かれるだろうか。 これはAとBに権力を行使しているということから導かれるのだろうか。AとBがXの意向を受け止めて決定を流すので、それ以下のCから先へも決定が流れるという関係になっているのだろうか。今ひとつうまく納得できないのだがとりあえずはそう理解しておこう。 3つめの「委任的」というニュアンスは、Xの位置が円の中心にあるか、直線の端にあるかという位置の違いによって分類した前2者の場合とは違い、権限が「委任」されているという現象を捉えて分類したもののようだ。それは「どの権力反射においても服従者が同一人物である場合」と語られる。 XがYに対してAに服従するように命令して、権限をAに委任する。そのAはYに対してBに服従するように命令して、権限をBに委任する。このように、委任の鎖が続いて権力反射の鎖がつながっていくのを「委任的権力反射」と呼んでいる。この反射はYだけに及んでいるので、Yに直接命令しているXに権力源泉が集中する。しかし「決定は流れない」という。これは、委任していることによって権限がXの元にないから決定が流れないのだろうか。ここも今ひとつ理解が難しいところだ。 この3種類の権力反射鎖が社会全体としてはどのような権力現象を引き起こしているかという、全体性の把握がどのように演繹されるかというのが、この理論の理解において重要なところになるだろう。それは次回詳しく考えてみたいと思う。
by ksyuumei
| 2008-08-22 10:03
| 宮台真司
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