理解の道具としての形式論理 5

さて前回引用しておいただけの宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」の次の文章の考察をしてみよう。


「以上の復習を纏めると、権力を可能にする了解操縦とは、相手の了解において「権力主題を与えて回避的状態を構成する」ことだと言えます。人称性の操縦による「抵抗の宛先の不在」も「抵抗の宛先の分厚さ」も、回避的状態への否定的選好を強める働きをします。」


この文章で重要なのは、「回避的状態への否定的選好を強める働きをします」という主張が、論理的に導かれていることを理解することだ。それは現実の権力現象を観察して、観察した結果として「そのように見える」と主張しているのではない。もしそれが観察の結果に過ぎないのであれば、そのときはそうだっただろうが、それが普遍的な法則性を持っているかどうかは分からないとしか言えないだろう。帰納的推論は、「そう見える」ということから「そうだ」という結論を引き出そうとするもので、これは仮説以上のものはもたらさない。しかし、演繹的推論によって論理的に導かれた結論は普遍性を持つ。



この普遍性は宮台氏が権力というものを抽象的に定義したことからもたらされる。権力を現実に観察できる対象にしておいたのでは、そこからは帰納的推論による帰結しか導かれない。権力を抽象化し、その抽象化した権力が機能する「理想的世界」を構築したおかげで、その世界では権力がどう働くかということが論理のみによって導けるようになったのである。

さてこの論理的帰結は、その結論だけを見ていたのではその正当性が十分理解できたとは言えない。どのような前提を置いて、どのような推論によって結論が導かれたかというのを、直感的にもよく納得できるように論理の鎖を見出さなければならない。論理の飛躍がないように、その論理展開がすべて納得できるように理解しなければ、この理論を理解したとは言えない。

まずは「回避的状態への否定的選好」という言葉の理解を完全にするように努めよう。「回避的状態」とは、自らが選びたい選好とは違うものを選択せざるを得ない状態ということだ。それは、最も選びたい・自分に最善の利益をもたらす選好は、それに伴う不利益があまりにも大きいので、その不利益を「回避」するためにあきらめざるを得ないという状態があることが理由で、本当は選びたくないのだがという「否定的」な選好を選ばなければならないということだ。

この選好が、人間の自由を抑圧し、人権を弾圧するものであれば権力の不当性を問題にしなければならないが、権力が「否定的選好」を選択させるものとしては、そのようなものばかりだと理解するのは間違いだというのが宮台氏の「権力の予期理論」が主張するものでもある。従って上のような「回避的選好」を強める働きというのは、有効に使えば社会の秩序を維持するためにプラスとなる方向で利用できると理解しなければならない。

この「強める」という主張を支える論理的な根拠は何になるか。それが今回の考察の主題だ。その「強める」という結果をもたらす現象としての根拠は「権力主題を与えて回避的状態を構成する」ということに見られる。「権力主題」というのは、「選好構造」と「予期構造」によって与えられる選択肢の組だと考えられる。いずれの選択肢を選ばなければならないかという状況において、権力の存在によって、権力者が選ばせたい選択をするように働きかけることが「権力主題」をなすものだと思われる。「主題」とは、権力者が選ばせたい選択だと言っていいだろう。

その選択肢を与えたときに、「回避状態」を構成するというのはどういうことだろうか。それは服従者に対して、自分が選びたい選好を自由に選ばせるという状況を作らせないということだ。ここに自由があれば権力は働かない。不自由感を作り出すことが「回避状態」を作り出すことになる。選びたくても選べないという状態だ。

これは権力というものがすでに存在しているのであれば、単に選択肢を与えるだけで成功する。だが、権力が確立されていなければ、選択肢を与えただけでは「回避的選好」を選ばざるを得ないという思考を相手に与えることは出来ない。権力がなければ、相手は自分が選びたいものを選ぶだろう。これは、権力というものが回避的選好に対して必要条件として働いていることを意味する。つまり、

  「回避的選好を選ばざるを得ない」 <ならば> 「権力がある」

という仮言命題が成り立つ。これは宮台氏の定義そのものだ。だから、これが成立することは論理的には明らかである。しかし、これが成り立ったからといって、これが現実を説明しているものにはならない。なぜなら、これは権力というものの抽象的定義を語っているだけなので、抽象世界で成り立つ命題であって、現実がそうなっているということを法則性として取り出してきたものではないからだ。

さてこのような抽象的定義の権力が存在している世界において、「回避的選好」を強める働きを「人称性の操縦」が持っているということが論理的に帰結するようになっているだろうか。「人称性の操縦」という抽象的対象は、それが定義される概念の中に、「回避的選好」を強めるということが引き出せるように定義されているだろうか。

「奪人称性」というのは、権力者から人称性を奪い、抵抗の宛先を失わせるものとして定義されている。それは、誰か特定の人間が権力をふるう形になっていない。誰か特定の相手が権力者として登場していれば、その権力が恐ろしいものであったとしても、面従腹背という形で抵抗をする可能性が残される。しかし、特定の誰かがどこにも見つからなければ抵抗の意志はどうなるだろうか。

これは、連帯することによってもう一つの権力を生み出すことが出来れば、権力対権力で対抗する可能性は残されているかもしれない。しかし連帯が生まれず、孤立した状態にあれば抵抗する意志は「奪人称性」を持った権力に対してはあまりにも無力であることが論理的に結論できないだろうか。それが現実の観察をしなくても導かれる結論であれば論理的な帰結であると言っていいのではないかと思う。

「汎人称性」に関しては、それが世間一般の誰もが考えることであると了解されるときは、やはり抵抗の意志が孤立化してしまい、それが実効的な力を持つとは思えないということから「回避的選好」を強めるということが帰結しそうな感じがする。

宮台氏の理論では、権力というものが実体的な・ある種の強大な力としては定義されていなかった。これは、力があれば権力が振るえるということは普遍的なものではなく、偶然そう見えるだけという判断があるのではないかと思う。強大な力よりも、むしろ社会の大多数の人がどう考えるかという「予期」の方にこそ権力の本質を見ていると理解した方がいいのではないだろうか。

もし力が権力の本質であれば、弾圧してくる権力に対抗するにはもっと強大な力を求めるということになるだろう。現実的には軍事力を持つことこそが最強の権力の道ということになる。これは、現実の権力に常に強大な軍事力が伴うことを見ると、何となくそれが正しいように見えてしまうけれど、どんなに強大な軍事力で弾圧しようとも、その弾圧が強いものであればあるほど抵抗も強くなるようにも感じる。現代の最も深刻な問題である「テロ」の問題などは、軍事力では圧倒的な差がある人々の間にさえ、絶望的ではあるけれども死をかけたほどの抵抗が消えないということを示しているようにも見える。力だけでは人間を完全に押さえることが出来ないということを示しているのではないだろうか。

権力の本質を捉えて抽象するには、力ではない、本当に人々が権力に服しているという状態を妥当に説明するものが必要なのではないかと思う。それが「選好構造」と「予期構造」による宮台氏の理論ではないかと思う。日本社会は、自衛隊が持っている物理的な軍事力はアメリカに次いですごいものらしい。イージス艦のように最先端の兵器を持っている国はアメリカ以外には日本だけだそうだ。だが、日本の自衛隊は、世界の軍隊の中でもアメリカに次いで強いとは決して言われない。

しかし、日本では人々が法律に従い、犯罪が少ないことでは世界で一番の地位を占めている。権力による秩序の維持が、おそらくは世界で一番うまくいっているところが日本ではないだろうか。その根拠となっているのは、強大な力ではない。むしろ日本人の大多数が抱いている権力への信頼という「予期」が大きいのではないだろうか。日本人は、隙があったら自由にやりたい放題だという心情を持つことが少ない。権力の合法性など、制度的な「奪人称的権力」がもたらす「回避的選好」を選んだり、世間の目や空気という「汎人称的権力」がもたらす「回避的選好」を選んだりする傾向が強いのではないだろうか。

宮台氏の理論は、理論である以上抽象的世界では論理法則に従った絶対的真理となるだろう。これが現実にも有効であるかどうかは、この抽象的世界の妥当性を持ったモデルの解釈が出来るかどうかということにかかっている。日本社会の安定性を考えると、権力が秩序をもたらすという点に関しては、論理が語るような真理が現実にも成立していると判断できるのではないだろうか。

僕は、日本人の主体性に欠けたように見える態度に何か遅れた国民性のようなものを感じていたときもあったが、これも視点を変えてみてみれば、社会の安定ということに関しては非常に有効に働いていたのだなという感じがする。もちろん、安定していればすべてが良いというわけではないので、安定即善だという結論にはならない。かつての日本の家の安定は、嫁という犠牲者の上に、すべての苦労が被さっていたので結果的に家が安定していたという指摘を読んだことがあり、それは全くその通りだと思ったので、犠牲の上に成り立っていた安定が、犠牲を解消したために崩れるのはやむを得ないという気持ちもある。

しかし、安定そのものが無くてもいいのだというわけにはいかないから、日本の家は、嫁という犠牲者を出さない安定を求めなければならないだろう。そのためには、「選好構造」と「予期構造」という視点で、この了解の操縦を、不当な犠牲を払うことなく構築するという方向を見出さなければならないだろう。

理論というのは、抽象的な対象の世界では、数学のように論理のみでその世界が見出せるものになる。その正しさは100%信頼してもいいものになる。人間が合理的に考えることが出来るのは論理の世界を離れては存在しないのであるから、これが真理に到達するほとんど唯一の手段かもしれない。そして、理論の正しさを納得できれば、その理論が現実に応用されて、現実が予想通りに操縦できたとき、現実をモデルとして捉えた妥当性も証明されるのではないだろうか。この証明された抽象的理論が、現実にも正しい真理として科学と呼ばれるのではないかと思う。宮台氏の権力理論が正しい予想を生み出すのなら、それは科学と呼べるものになるのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2008-08-21 09:39 | 宮台真司


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