論理計算における真理値と正負の数の計算におけるマイナスの数との類似

数学においてマイナスとマイナスのかけ算というのは、直感的に理解するにはたいへん難しいもので、ここで躓く子供が多いのではないかと思う。このかけ算の規則は、ルールとして覚えてしまえば何でもないもので、それほど覚えにくいものではない。だが、この記憶が定着しないというのは、何か変な気持ち悪さがあって、どうしても「マイナス×マイナス」が「プラス」になるということに納得できなくて、その自分の気持ちを認めてやりたい気分が、この単なるルールの記憶を困難にしているのではないかと思う。何か変だと思うことがらが記憶できないというのは、きわめて人間的で自然なことではないかと思う。

マイナスとマイナスのかけ算に関しては数学史の上でもなかなかこれを認められなくて苦労したということが伝えられている。これは直感に反する結果として提出されるのでそれを正しいものとして覚えるのが気持ち悪いのではないかと思う。数学史の上では、マイナスの数を借金として想像することが多かったようで、これとの連想で考えると、借金と借金をかけ算してプラスになる、すなわち財産になるというのは明らかにおかしいと感じる。

これは実はかけ算の意味を間違えているので、よく考えれば借金と借金はかけ算してはいけないことが分かるのだが、直感的に浮かんでくるマイナスの数のイメージが借金しかなければこのような想像が浮かんでくるのも無理はない。数学における計算は、計算そのものとして考えるときは、借金というような属性が無くなってしまうのだが、マイナスの数は、プラスの数の反対のものとして導入されたりするので、それを想像するにはどうしてもプラスの反対になるものとあわせて考えないと、マイナスの数そのものが頭に浮かんでこない。その概念がつかめないのだ。



借金というようなイメージなしにマイナスのかけ算を理解しようとすれば、それは単なる言葉の約束として覚えるしかないものになる。その計算のどこに合理性があるのかというのはこのような理解では全く分からなくなる。せいぜい出来ることは、その記憶の定着が強まるように、覚えやすくなるようなうまい解釈を施して、間違えずにルールを適用できるようにしようということだけになる。僕の場合は、「敵(マイナス)の敵(マイナス)は味方(プラス)だ」というようなイメージで覚えた。

後に群論を勉強することで、このかけ算の法則が実は構造的なもので、数の集合をプラスもマイナスも含めた体系的なものと考えると、「マイナス×マイナス=プラス」という計算は、構造からの要請として、どうしてもこうでなければならないということが示されることが分かった。「2007年09月24日 数学的法則性とその現実への適用」というエントリーでそのあたりのことを一度考えてみたのだが、それは、正負の数を要素とする集合に、かけ算と足し算が定義されていて、我々が普通に知っている演算の規則が成り立っているなら、それはそのような集合の性質としてかけ算の法則(マイナス×マイナス=プラスというもの)が成立するというようなものだ。

これは、数学としてどうしてもこのようにしなければならないもので、あとは、これを現実世界において解釈するときに、うまく正負の数をモデルに出来れば整合的な解釈が出来るということに過ぎない。このかけ算の規則は、現実とは無関係に、数学内部の事情で成立しなければならないのだ。内部の事情というのは、数の集合の中での方程式に必ず解が見つけられるということを保証したり、加減乗除の演算に関して、その答えが一つに決まらなければいけないということを保証したりすることだ。

このような論理的な構造からの要請がまずあり、現実の解釈は二の次になるところにこの理解の難しさがある。具体的なイメージは、あくまでもモデルの解釈に過ぎないので、その解釈が、構造が要請する性質とぴったり合うような抽象的なものではなく、雑音が入っているような特殊性を持っていれば、その雑音が邪魔をして理解を難しくする。

論理学における仮言命題の真理値に関しても、実は似たような難しさがあるように感じた。「AならばB」という仮言命題において、この仮言命題が真になるか偽になるかという真理値は、AとBの真理値によって決定される。Aが真であり(正しくて)Bが偽になった(正しくない)時は、「AならばB」という仮言命題は、偽(正しくない)と判断される。これは常識とよく合う。

Aが正しいときに、「AならばB」も正しければ、当然Bも正しくなると考えるのが常識的な判断だ。ところがBが正しくないのなら、「AならばB」が正しくないのだとしか言えないだろう。形式論理学の真理値の割り当ても、そのようになっている。だがAが正しくないとき、仮言命題「AならばB」の真理値は真、つまり正しいとされるのが形式論理の真理値の割り当てでもある。

これは何か変だ。Aが正しくないときは、Bの正しさに関係なく、「AならばB」という仮言命題は正しいと判断されてしまう。これは日常感覚とは大いにかけ離れる。そんなことが論理的であっていいのだろうかと感じてしまう。しかし、形式論理ではそのように判断しなければならない。マイナスのかけ算が何か変な感じがしたのに、そう考えなければ数学としての体系や構造が保てないのと同じように、仮言命題の真理値をそう考えなければ、形式論理としての体系や構造が保てないのだ。

Aが間違った命題の時、全く無関係の命題Bをならばでつないで仮言命題を作ると、次のようなものが作れる。

・もし0が100よりも大きい ならば 地球は二つの衛星を持つ。
・日本の首都がワシントン ならば 10年後に日本は米国に併合される。

この二つの命題は全くのでたらめだが、仮言命題の前件が完全な間違いで偽となる命題であれば、この仮言命題全体の真偽は真であると判断される。つまり、仮言命題としては正しいのだ。そんなことは全く直感に反する判断だろう。これを変だと思う方が普通だろうと思う。

これは、「マイナス×マイナス=プラス」という計算で、借金と借金をかけておかしいと思う感覚と同じなのだが、マイナスのかけ算の場合は、現実にはかけ算をしてはいけないかけ算を想像したのでそのようなおかしなイメージが出てきてしまった。この論理式の場合は、いったい何がいけないのだろうか。

それは、上のようなでたらめの仮言命題を作って、それが現実に適用できる命題になると考えるところに間違いがある。上の仮言命題では、前件に当たる部分の命題が決して真になることのないものとして考えられている。つまり、この仮言命題からは決して後件の正しさを導くことは出来ないのだ。後件の正しさを導くことの出来ない仮言命題など、現実にあり得るだろうか。

実は命題の真理値というのは、現実に存在しない抽象的な対象なのだ。形式論理では命題の真理値というのは、真であるか偽であるか必ず決まっている。両方が同時に成立してもいけないし、どちらになるかが決まっている。どちらか分からないという状況になってはいけない。これは、論理の体系を作るために必要な前提として、論理空間という抽象的な世界の性質を決定するために必要なものだ。

これは抽象的なものなので、現実には当てはまらない変なところが、現実との対応をさせているとどうしても出てきてしまう。現実の世界を記述した主張は、命題として真偽が決定するとは限らない。また仮言命題は、現実世界の中で見つけるときには、時間的な前後関係や因果関係を持つものとして発見される。全く関係のない主張を結びつけてその真偽を問題にすることなどない。

このように抽象と現実が一致しないときでも、抽象的対象はその体系の中でルールにより決定されることがある。代数的構造の中では、「マイナス×マイナス=プラス」でなければならないというような性質が、抽象的に成立することが要請される。同じように、仮言命題の真理値というものも、形式論理の論理空間の整合性から要請されるものとして、現実との乖離があろうともそれを受け入れなければ、論理そのものが展開できなくなる。

形式論理では、論理を表す記号列を式と呼び、この式を変形しながら論理がどのように展開されていくかを見ることがある。いくつかの公理を前提すれば、その公理を変形して様々な定理を作り出し、その生成過程を証明とすることが出来る。この生成過程は、あたかも正負の計算が成り立つ計算過程のように、アルゴリズムに従った計算として提出される。その計算が、論理という世界の中で体系的であり整合性を持つためには、上のような仮言命題に対する真理値の割り当てが必要になる。そのような割り当てをしないと、論理計算の整合性が保てないのだ。「マイナス×マイナス=プラス」でなければ方程式の解答が求められなかったように、真理値の割り当てが上のようでなければ論理は整合的な体系を持てない。

「AならばB」という仮言命題と「BならばA」という仮言命題から「AとBは同値である」という論理的な結論が出てくる。「同値」というのは、真理値が同じということだ。つまりAが真の時はBも真になり、Aが偽の時はBも偽になる。これは

   「AならばB」かつ「BならばA」

が成り立てば、

   「AとBは同値」

が成り立つということになる。これを真理値の関係でも成立するように式の整合性を取るならば、AとBがともに真である場合は、「AならばB」と「BならばA」のどちらも真理値が真になるので、「AとBは同値」というのも正しくなり真理値が真になる。

ところでAとBがともに偽という真理値を持った場合は、「AとBは同値」ということは正しくなるのでその真理値は真になる。そのときに

   「AならばB」かつ「BならばA」

という命題を考えると、「AならばB」と「BならばA」という二つの命題が両方とも真にならないと、この「かつ」で結ばれた命題は真になることが出来ない。つまり、前件が偽の時に仮言命題に真という真理値を割り当てないと、同値であるという判断との整合性がとれなくなる。これは、現実とは無関係に、形式論理の世界から要請される構造的な整合性なのだ。

このように形式論理は、現実を短絡的に当てはめて解釈すると、抽象の過程がうまく一致しないために変な展開になることがある。しかし、その適用さえうまくすれば、複雑な論理の流れを簡単な計算で展開できるという便利な面がある。複雑な数字の関係を単純な方程式で表現して、未知なる数を求めることに役立てられるという数学の有効性に似たものがここにはある。論理の世界と現実の世界との違いとつながりをうまく見分ける技術を持つことが、この適用の正しさを理解させ、有効性を実感できる経験に結びつくのではないかと思う。
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by ksyuumei | 2008-08-11 23:07 | 論理


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