形式論理における「二重否定の法則」と弁証法における「否定の否定の法則」

形式論理と弁証法では、そこで使われる「矛盾」という言葉に際立った概念の違いを感じるが、「否定」の概念についても微妙な違いを感じる。これは「矛盾」ほどその違いがあらわになっていないので、どちらも同じ「否定」ではないかと感じる人も多いのではないだろうか。しかし、形式論理における「二重否定」はまた元の命題に復帰するのだが、弁証法における「否定の否定」は元の命題に帰るのではなく、元の命題が発展した形での命題に復帰することになる。ここに両方の「否定」の概念の違いが現れている。

一言で言ってしまえば、両方の概念の違いは「視点」の違いとして記述できる。弁証法というのは、基本的に「視点」をずらすことによって現実の中で新たな発見をもたらそうとする発想法だ。それに対し、形式論理というのは、形式論理が正しくなるような世界を構築し、その世界の中では厳密に言葉通りの約束が成立するということを要求する、言葉の使い方に厳密な意味を与えようとする一つの理論体系だ。

形式論理は、その体系が完結していることを要求するので、体系の中で定義されたものが途中で変化することを許さない。あくまで固定的に対象を設定して、その固定した静止の中で成立する法則性を求める。しかし、弁証法は、現実に対して有効な発想をもたらそうとするために、現実の多様性や変化を許容するような論理を設定しなければならない。それはある事柄を固定的に設定したのでは、変化や多様性を受け止めることが出来ない。そのため、いつも「視点」をずらすことによってその変化や多様性を受け入れる余地を作り出す。だから「否定」も絶対的な「否定」ではなく、「視点」によっては「否定」にならない「否定」である場合がある。そこに僕は両者の違いを見る。



形式論理における「否定」というのは、そこに「否定」の現象を観察して、その結果として記述されるものではない。「ない」という現象はとらえることが出来ないのだ。我々に観察可能なのは「ある」という現象だけだ。「ない」という判断は、我々が「ある」と判断したことが間違えていたとき、その判断が正しくないということを意味するときに「ない」と語ることになる。形式論理における否定は、判断として頭の中にのみ存在する。

「机の上に本がある」という判断をしたとき、その判断が、何らかの勘違いで間違っていたというときに「机の上に本がない」という否定命題が表現される。否定命題というのは、必ず肯定命題とともに提出される。三浦さんの言語論でも、否定の表現というのは、肯定表現がされた後に、それに付け加えて表現されるということが指摘されていた。我々は「否定そのもの」の現象を捉えて表現することは出来ないのだ。

机の上に本と見間違えるような何かがあるとき、「机の上に本がある」という判断をした後に、その間違いに気づいて「机の上に本がない」という否定判断を表現する。このとき、机の上に最初から何もない状態があったとしたら、そのときに我々は「机の上に本がない」という判断をすることは出来ない。そのときは、「昨日は机の上に本があった」というような前提を元にして、「なぜ今日はないんだ?」という疑問とともに「机の上に本がない」という表現をするだろう。「ない」の前提には必ず「ある」がなければならない。

この形式論理において、二重否定が出てくる場面を想像すると次のようになるだろうか。机の上に本があるのだが、それがたとえば紙の束の下に隠れて外から見えなくなっていたりする場合を想像してみる。そのとき、本を捜して、確かに昨日はあったはずだが今日は見えないなというようなことを考えていると、「机の上に本がない」という判断が生まれる。しかしよく捜してみると、紙の束の下に隠れた本が見つかる。これは判断としては「机の上に本がある」ということになる。

これは最初の判断の「机の上に本がない」ということが否定されて「机の上に本がない・のではない」というような表現になる。この二重否定は、本が見つかったのだから、「机の上に本がある」という普通の肯定と同じものになる。これが形式論理の二重否定が現れる状況だ。この二重否定は単純な肯定と全く同じものになる。

ここに弁証法的な見方を適用して「否定の否定」を捜すことは出来ない。この否定判断の二重性の現象は形式論理のものであり弁証法のものではないからだ。弁証法の「否定の否定」の状況は、たとえば三浦つとむさんが『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)で語っているマイクとスピーカーを使った音声の伝達現象などに発見できる。

言語としての音声はまずは人間が口を使って空気を振動させることによって起こる。この「機械的」な振動の現象を、マイクは「電気的」な振動に変える。このとき最初の否定(「機械的」でない「電気的」なもの)が生じる。しかし、この「電気的」な振動は、そのままでは人の耳から聞こえないので、再び「機械的」な空気の振動に変えてやらなければならない。これは二度目の否定(「電気的」でない「機械的」なもの)を生じさせる。この二度の否定において、最初に否定された「機械的」に再び復帰している。このようにまた元に戻ってくる二重の否定を弁証法的な「否定の否定」と呼んでいるが、この復帰は、元の「機械的」と全く同じものではない。

最初の「機械的」は、一人の人間が自然に音声を口にしたものを意味するが、最後の「機械的」は、たとえば自然の状態では実現できない大音量を実現したり、電線や電波を使って、自然な状態では実現できない遠距離への伝達を可能にしたりする。このように有効性が増したりする状態を、弁証法では「発展」と呼んでいる。弁証法における「否定の否定」は発展をもたらす否定であり復帰になっている。三浦さんは、このような現象を、「回り道」を使って発展を実現すると語っていた。

形式論理の二重否定の復帰は、元の命題と全く同じものに復帰する。弁証法では発展した形での命題に復帰する。これは、形式論理の否定が、その命題のとらえ方としての「視点」が全く変わらずに、命題が表現された状況判断のみが否定されて、否定された結果がどういうとらえ方をされるかということに全く言及しないので、その否定をもう一度否定したときに、元に戻らざるを得ないものになっている。弁証法が「回り道」なら、形式論理は、同じ道をまた帰らなければならない「視点」になっている。

「机の上に本がない」と判断した状況は、「机の上に紙束ならある」という「視点」を変えた表現にしてはいけない。形式論理では「本がない」という事柄だけしか表現できない。だから、これをもう一度否定するなら、「本がある」という本だけの言及にとどまる命題しか言えないことになる。「視点」を変えることができないので、「本がある」か「本がない」かどちらかのことしか言えないわけだ。そのような意味では、形式論理というのは、この二項対立という「視点」を持った論理とも言えるわけで、排中律という「Aであるか、Aでないか、どちらか一方が必ず成立する」という規則に従った「視点」を持つと言える。

弁証法では最初の否定から次の否定へ移るときに、対象を見る「視点」を変えて否定の方向を変える。だから、最初の否定と、次の否定は言語の表現としては同じものに見えるが、その意味が違ってきている。最初に「機械的」を否定して「機械的でない」にした場合、それは「電気的」というものだけをもたらす判断にはならない。「電気的」は「機械的でない」という表現が含む多様な対象の中の一つに過ぎない。この中から「電気的」を選ばなければならない必然性は論理の中にはない。「機械的でない」を「電気的」と表現した時点で、ここではもはや否定の視点が変わってしまっている。

この「電気的」を再び否定するときも、それは「電気的でない」という命題そのものにならず、「機械的」という視点で語れるものがその否定として選ばれている。これは、最初の否定の視点と重なる部分を見出して、弁証法的な「否定の否定」の法則を見出すために視点をずらしている。だが、これは重なる部分があるものの、最初の「機械的」な視点そのものではなくなっている。このずれが弁証法的な発展という解釈に関係してくるものと思われる。

この形式論理の否定と弁証法の否定は、どちらも違った概念としてとらえられるが、それは対象の違いに即して適用を判断するものとして両立しうるものになるだろう。命題を固定的に考えて、その静止した状況の下で、約束事としての判断をしたいときは形式論理が役に立つ。このようなときに弁証法を使ってしまえば、約束を勝手に変えてご都合主義的に論理を展開することになってしまい、弁証法は単なる詭弁になってしまうだろう。

また、現実の多様性が、固定的な判断ではなく、多様性に応じたいろいろな側面から見ることを示唆しているような対象を考察するときは、それを形式論理で扱ったら多様な変化する面を固定的に静止して見てしまい、ある種の先入観にとらわれた間違った判断を持ち続けることになるだろう。どちらの論理を適用するのがふさわしいかを考えなければならない。

現実に具体的に存在している対象だからといって、それがすべて弁証法で扱うことがふさわしいとは限らない。ルールとして確定しているような対象は、むしろ形式論理で扱うことが必要だろう。たとえば、法律で何かを裁くというような行為は、それが法律として確定したルールになっているなら、そのルールに従っているのか従っていないのか、二者択一的に形式論理で判断することがふさわしいだろう。そこに感情を入れたりするのは間違いだ。どんなに犯人らしく見える人間でも、その証拠が不十分であればルールに従って無罪にすることが正しいだろう。

だが、法律で裁く行為というものがそもそも人間にとってどのような意味を持っているかとか、それはいつでも正しい結果をもたらすものであるか、というような問いを立てると、これに対してはその多様な側面の一つ一つを確認しながら論理を進めなければならないだろう。弁証法的な発想で見るのがふさわしい。死刑廃止論なども、何かある前提があって、そこから形式論理的に結論が出るなどという発想はふさわしくないだろう。多様な、ある意味では矛盾しているように見える主張でも両立させなければならないだろう。

現実に我々が理解したい対象が、形式論理でとらえた方がふさわしいのか、弁証法でとらえた方がふさわしいのか、常に忘れないようにすることは重要だと思う。まもなく中国でオリンピックが開催されるが、これなども形式論理でとらえた方がふさわしい事柄と弁証法でとらえた方がふさわしい事柄があるに違いない。その区別を考えてみたいものだ。

もし報道の自由とか、国家権力から守られるべき人権というものの考え方が、近代社会であればこのように確立されているというルールが存在するのであれば、そのようなものを考察するときの視点は形式論理がふさわしいと思う。もしそのようなルールがまだ確立されていないなら、それを確立するためにも、多様な視点で現象を見る弁証法的な視点がふさわしいだろう。

形式論理と弁証法の視点の違いは、「矛盾」という言葉の使い方にも現れているので、今度はこれについても詳しく考えてみたいと思う。そして、具体的な現実の理解や、難しい理論的な体系の理解に、形式論理と弁証法をうまく利用して、世界のとらえ方をもっと深いものにしていきたいと思う。形式論理と弁証法は、そのような学習にきっと役に立つだろうと僕は期待している。
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by ksyuumei | 2008-08-06 18:42 | 論理


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