機能(システム)としての「宗教」概念

宮台氏は、「連載第一八回:宗教システムとは何か?(上)」で下位システムの一つである「宗教システム」について書いている。下位システムとは、上位のシステムが、その機能の達成のために機能を分化してその内部に部分として作りあげたシステムになる。

この下位システムに対しては、上位のシステムは「環境」となる。下位システムの存在の前提条件を供給するものとなる。この下位システムが「下位」と呼ばれているのは、単に部分として含まれているという関係だけではなく、上位システムの存続のための機能(秩序を保つための機能)を分け持つという「分化」という関係に注目してそのような呼び方をしている。注目するのは機能の分化である。

システムというのが、そもそもある機能を達成するための装置と考えられているので、このような思考の展開は、システムの概念から導かれる流れとしては自然なものになるだろう。社会をシステムとして捉えるというのは、社会において秩序が達成されるための機能を持つ装置のメカニズムを解明するという理解のしかたになる。社会の全体性をいきなり捉えるのは難しいので、その一分野を受け持つ下位システムをまず解明しようという方向は、論理的にも理解しやすいものになるのではないかと思う。



宮台氏は、「下位」という言い方が、単純に「部分」を意味するのではないということを次のように説明している。


「システム存続に必要な諸機能の一部を分掌する下位システムを、単に全体に対する部分や部品と等置してはいけません。私たちが「部分システム」という巷で用いられる名称を使わない理由もそこにあります。部分や部品は必ずしも機能の分掌を意味しないからです。」


「下位」という概念にとって重要なのは、「機能の分掌」なのである。これをもう少し分かりやすいイメージで説明すると、人体をシステムとして捉えた場合の、人体の「下位システム」についての例になる。宮台氏は次のように書いている。


「ところが、下位システムと呼ぶ場合、単に下方のシステムあるいは部分のシステムではなく、「機能的分掌をなす」下方のシステムを指します。だから人体にとっての下位システムは単独の臓器や細胞ではなく、免疫システム・神経システム・循環器システム等です。」


臓器や細胞は、人体にとって大事な部品ではあるが、それが全体の中でどのような機能を受け持っているから人体の秩序(生命を維持すること)が実現されているかということは、部品という実体の観察からはメカニズムが解明されない。人体が死を迎えれば、その部品も死んでしまうということや、部品の調子が悪くなれば人体という全体にも影響を与えるということは分かるが、分かるのはそこに関係があるということまでで、それがどのように働いているかというメカニズムの解明が出来ない。

メカニズムを解明するためには、あくまでも機能に注目して、その機能が分化して働いているものが、人体という全体に統一されて、各機能がコントロールされている状態が人体の安定(秩序)というものになると考えられる。だから、機能に注目すれば下位システムは、「異物侵入を無害化する機能」の「免疫システム」、「外的刺激に即時に反応する機能」の「神経システム」、「リソースを運搬する機能」の「循環器システム」などが考えられる。

このように考えると、社会の秩序維持のための機能を分化して受け持つ「宗教システム」は、どのような機能を担うのかということが重要になる。宮台氏に寄ればその機能は「前提を欠いた偶発性(=根源的偶発性)を無害なものとして受け入れ可能にする機能(を持つ装置の総体)です」と説明される。この、機能としての側面を捉えた定義が、社会システムを考える上での「宗教」の定義になり概念となる。これは一般的なイメージとはかなりかけ離れているのではないかと思う。

一般的なイメージでいう「宗教」とは、個別具体的な現実にある「宗教」から作られるイメージではないだろうか。それはたとえばキリスト教であったり、イスラム教や仏教であったりするだろう。宗教的な信仰を持っている人に向かって、それは「前提を欠いた偶発性(=根源的偶発性)を無害なものとして受け入れ可能にする機能」として信仰しているのですか、などと聞いたら怒り出すだろう。信仰はそのような他人事で語るようなものではないからだ。

しかし「宗教」を社会学という「科学」で捉えようと思ったら、それは徹底的に他人事として見なければならないだろう。そうでなければ客観性が損なわれるのではないかと思うからだ。「宗教」を主体的・主観的にしか見られない人は、残念ながらそれを「科学」として考えようと意図することはあきらめたほうがいいだろう。主体的・主観的な見方は、任意の他者が同意するものにはならないからだ。

「宗教」というのは、歴史的には「聖なるものや聖なる体験を宗教と呼ぶ」言葉の使い方があったらしい。これは機能というよりも実体に注目した概念であり、その定義になるだろう。したがって、この定義で対象を見ると、「前提を欠いた偶発性(=根源的偶発性)を無害なものとして受け入れ可能にする機能」はないが、見かけが「聖なるもの」「聖なる体験」に見えるものを「宗教」の中に入れてしまうことが起こる。言葉が与える概念が、現実世界の見方を規定してくる。

この定義からは、「聖なるものを非日常的体験やトランス状態によって──日常的体験やシラフ状態との差異によって──定義するのが経験に即します。でもそうすると、ドラッグによるトリップや、激烈な地上戦下の変性意識状態が、聖なるものとなり、宗教に算入されてしまいます」と、宮台氏が指摘するように、機能的にシステムに組み込むことの出来ないものが「宗教」の中に入ってしまう。システム論として「宗教」を考える上ではこの定義はふさわしくないといえるだろう。

それでは「究極性や最高性を宗教的なものと見做す定義」は、システム論としての定義として使えるだろうか。これは、現存するいくつかの「宗教」には当てはまる気がする定義だ。キリスト教やユダヤ教・イスラム教の神は、その元をたどればすべて同じもので、唯一・究極な存在として捉えられている。しかし、この定義も宗教としてはイメージしにくいものが入り込んでしまう。「ケルゼン流の概念法学で把握された憲法は定義に合致するし、俗に言う「科学万能主義」の世界観も定義に合致しますが、私たちは比喩を超えて憲法や科学を宗教と呼ぶのを躊います」と宮台氏は書いている。

機能に注目した定義としては、やはり宮台氏が提出する「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にする機能」というものがシステム論としてはふさわしいのではないかと思える。このような装置が、偶発性が引き起こすかもしれない社会全体に及ぶ不安やパニックを鎮めるために機能するとすれば、宗教という下位システムは、上位システムである社会システムの秩序維持のために、この部分の秩序を受け持つことが出来るだろう。

宮台氏のこの説明は、論理的によく分かるのだが、よく分かるだけに困った問題もある。このように宗教を理解してしまうと、もはや宗教を主体的に受け止めて「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にする機能」として利用することが自分には出来なくなっていることを感じるからだ。僕は、もう宗教を信仰という形で感じることが出来ない。こうなると宗教なしに「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にする機能」を考えなければならない。今考えているのは、論理によって偶発性を納得するというものだ。宗教を失った人間は、その方向で不安を静めるしかないのではないかとも感じている。

宗教を機能的に捉えるというのは、宗教的な幸福感を味わうことはあきらめなければならなくなるが、論理的にはその便利さがよく分かる。さて、この宗教の概念は、この回の講座で提出されているもう一つの問題にも関わってくる。宮台氏はコミュニケーションメディアというものについて語っているのだが、これがいったん分化した下位システムが、また「融合」して元に戻っていかないようにする機能を担っているという。

コミュニケーションというのは、宮台氏の講座では、選択接続の束として定義されていた。メディアというのは、その選択接続を媒介するものとなる。これはなかなかイメージしにくいのだが、人体のシステムが分かりやすいので、宮台氏もこのメディアについての説明で次のように書いている。


「空間的局域ならぬ下位システム同士の作動の、組込み合いがあるなら、それらが癒合せずに機能的分化を継続し得る条件が重要です。神経システムが電気信号だけを選択接続のメディアとし、免疫システムが蛋白質の物理的外形だけをメディアとするのがヒントです。」


神経システムと免疫システムとして分化した下位システムが、再び融合して両方の機能を同時に実現したりしないのは、その媒介として考えられているメディアが、神経システムの場合は電気信号であり、免疫システムの場合は蛋白質の物理的外形だけだという違いがあるからだ。メディアがまったく違うので、それが媒介するコミュニケーション(選択接続)が、そのシステムでなければ実現されない。だから、その機能分化はもう再び融合することはないということだ。

宗教システムのコミュニケーションメディアについては、次回の講座で詳しく説明されるようだが、それぞれの下位システムにおけるコミュニケーションメディアについては、この回では次のようなものが紹介されている。


「コミュニケーションメディアは選択接続の閉じを与えます。経済システムは貨幣(所有/不所有)、政治システムは権力(罰回避/罰)、科学システムは真理(真/偽)、宗教システムは信仰(超越/内在)、法システムは法(正義/不正義)が、(所有への、罰回避への、真への、超越への、正義への)動機形成と期待形成を通じて、選択接続を媒介します。」


それぞれの下位システムのコミュニケーションメディアはまったく違うものとして考察されている。これが下位システムの分化を安定させているものになっているのだろう。宗教システムが科学的真理を決定する機能までも持っていた時代がかつてはあった。今ではそれはない。これは、上のように機能分化した社会システムのほうが、そうでない社会よりも安定的で、ある種の強大な力を持っているからだと宮台氏は語っている。ということは、分化が未熟な社会は、分化が進んだ社会よりも安定性や強さの面で、問題があると言えるのではないだろうか。これは日本社会を考える上で重要なポイントだと思う。談合などの行為が、システムとしては、政治システムが経済システムに強大な影響を与え、分化を損なっているといえるのではないかと思う。よく考えてみたいところだ。
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by ksyuumei | 2008-07-26 12:58 | 宮台真司


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