社会システムの下位システムへの「分化」という概念

下位システムとは、上位システムに対する概念として提出されているものだ。システムの場合は、あるシステムが部分的にもっと小さなシステムを含んでいるという状態が、全体と部分という対立ではなく、上位と下位という対立として把握されている。これは、上位システムが「環境」と呼ばれるものであり、下位システムの選択前提を与えているものという観点があることによって、上位と下位という見方になる。単に大きい・小さいという全体と部分という視点ではなく、あくまでも選択前提というシステムの根幹に関わる部分を見るために、上位と下位という区別をしているのだろう。

社会というのは、人間の協働が見られるシステムでは最上位に当たるものになるだろう。現代社会は複雑な構造を持っていて、そのまま眺めていたのでは、どうして秩序が保たれているかがまったく分からない。そこにある必然性を洞察することが出来ない。そこでこの複雑な社会システムを、部分をなす下位システムに分けて把握することが考えられる。複雑すぎる現代社会のシステムは、もっと小さな単位に当たる社会の一部の機能に秩序を与えるシステムに分解される。

これは、社会システムを把握するために、複雑すぎる全体を分解するという、一つの思考の技術を使っていることになる。しかし、実際は現実はその逆に、部分をなす特殊機能を果たすシステムが発達したからこそ、現代社会は全体の複雑化を増す方向へと進化してきたのではないかとも考えられる。そのようなシステムの捉え方が「分化」という概念に当たるような気がする。この「分化」という概念を持つことにより、社会システムの進化が見えてくるような気がする。




さて宮台氏は、「連載第一七回:下位システムとは何か?」では、下位システムについて具体的な記述はしていない。社会が複雑化したときに、さまざまな社会的な分野で起こる問題をまず考察している。

たとえば政治的な場面においては、単純な社会では、政治そのものに携わる人間は数が少なかっただろう。だから、社会全体の意志決定が必要なときも、少数者の合意を取り付けるだけですんでいたのではないか。それがだんだんと多くのものが政治にかかわるようになり、民主主義的な政治になれば、建前上はすべての有権者(成人として人権が認められた人々)が参加することになり、その合意を取り付ける複雑さは大変なものになる。このような社会では、「政治とは、共同体の全体を拘束する決定を産出する機能(集合的決定機能)を果たす装置の総体」という概念の下に設定されたシステムが、その定常的な秩序を保たなければ社会が成り立たなくなるだろう。

また経済を「共同体の全体に資源を行き渡らせる機能(資源配分機能)を果たす装置の総体」として考えると、このシステムでは、複雑化し肥大した経済を持つようになった社会では、その資源をどう適正に配分するかが問題になってくる。一部の支配者が自由に資源を処分できるのであれば、その分け方に不満があっても社会全体の問題とはならないだろう。資源配分が、それに不満を持つ人間たちの間で問題になるのは、社会が複雑化し肥大したときになる。

この考察の過程で宮台氏は興味深い指摘をしている。それは、経済としての資本主義を考えると、それは各人が自由に振舞うことで、結果的に需要と供給のバランスが生れると見なせる。資本主義という自由主義経済では、このような神の見えざる手によって資源の適正な配分がなされるという。そしてその発想に対するマルクス主義の問題提起がある。マルクス主義においては、自由主義経済は、資本の適正な配分ではなく、むしろ市場を自由に任せることによって無政府性が生れ、これが不適正な資源の配分を生み出すと捉えていた。これはどちらの発想が正しいかを科学的に決定することは難しいのではないかと思うが、物質的な豊かさをもたらす競争においては、マルクス主義ではなく資本主義が完全に勝利したというのが人間の歴史ではないかと思う。

このマルクス主義に関連して東側の社会主義国家の捉え方を宮台氏は次のように語っている。


「因みにマルクスはビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフト(市民社会)を、市場の無政府性が一人歩きする怪物だと捉え、この無政府性を克服するために社会主義革命を構想しました。この構想に従って、二十世紀には「東側」と呼ばれる社会主義国家群が生まれました。
社会システム理論の鼻祖パーソンズは、東側のような政治の肥大した体制(後述)が生まれたのは、古典派経済学からヘーゲルを経てマルクスに至る「経済優位」の社会把握に問題があるからだと考えました。社会システム理論の構想は実はそこから生まれたのです。」


僕は、マルクス主義というものは、理論的には仮説に過ぎなかったものが科学という真理だと錯覚されたために、その真理性が宗教的に信じられてしまったというイデオロギー性にマルクス主義の一番の失敗を見ていた。あれがイデオロギーにならずに、仮説として理解されていれば、その正しい部分を見分けようという発想にもなり、マルクス主義の正しい遺産は受け継ぐことが出来たのではないかと感じていた。

しかし、上の宮台氏の文章を読むと、マルクス主義という理論体系そのものに「「経済優位」の社会把握に問題がある」という批判が成立しそうな気がする。経済という土台が、人間の意識を始めとする社会の上部構造(人間の精神面を反映する部分)を形成するという発想そのものに理論的な問題があると指摘しているように読める。このようなマルクス主義批判は、実はこれまで目にしたことがない。「存在が意識を決定する」という言い方は、何か正しいもののように受け取っていた。しかし、これは実は間違いではないかという指摘は、今なら頷けるものだ。

マルクス主義の失敗はイデオロギーの問題ではなく、理論の問題だったのではないかと今は感じる。「政治の肥大した体制」も、経済をすべて支配するためには、すべての人々を絶対的に支配する体制が必要で、マルクス主義の理論的基盤から必然的に帰結するような気もしてくる。経済は、社会にとって重要な一部ではあるだろうが、それさえ押さえれば社会に秩序が生れ安定するというものではない。というよりも、経済というのはそう簡単に押さえきれる対象ではなく、システムとしてどのようなメカニズムをもっているのかを解明することが大事で、政治によってコントロールできるとする発想にそもそも間違いがあったような気もする。

経済を国家が支配して、国家のコントロール下に置いている中国が、その上部構造である精神面で「拝金主義」が強くなり、西欧的な成熟した資本主義国家が、むしろ節度ある、物質主義を超えた道徳性を持っているように見えるのは、経済をコントロールするのではなく、その摂理を受け止めようとしているからではないかとも感じる。皮肉な現実だ。

イデオロギーは宗教的な妄想を生むので、論理的な間違いを生みやすいということがある。だから、イデオロギー的な、論証抜きに真理性を信じるという傾向があるものに対しては、僕は論理的観点からの嫌悪感を感じてしまう。三浦さんが「官許マルクス主義」と呼んでいたものや、通俗的なフェミニズムなどがそのように感じるものだ。だが、これらはイデオロギーとしての問題だけではなく、実は根本的に理論の基礎に間違った前提があったかもしれない。宮台氏の上の文章を読んで、そのようなことを考えるようになった。

社会システム理論は、宮台氏に寄れば


「パーソンズは、経済機能(資源配分機能)や政治機能(集合的決定機能)を含めて数多の機能的達成をせずには存続できないものとして社会システムを捉え、かつこれらの諸機能を担う下位的なシステムが、どれが優位というのでもなく相互依存する形を考えました。」


と語られるもので、下位システムに優位性というものを設定していないようだ。これはなるほどと思えるものだ。確かに経済というのは、食べていくのも大変だという環境にいては人間にとって最大の関心事になってしまうが、そのような条件がなくなれば、他のシステムを支配するほどの大きな影響を与えるものではなくなる。生活に余裕が出てくれば、人間というのは経済ではないものにむしろ大きな関心を持つ。「優位性」は普遍的なものではなく、特殊な状況で出てくるものに思える。

社会全体のシステムの安定のためには、その社会にあるシステムのすべてに安定がなければならないだろう。どれか一つが不安定になったり、肥大しすぎたりすれば、それが他のシステムに影響を与えて社会全体のバランスが崩れ安定を失う。上位と下位のシステムはそのような関係にあるように思う。宮台氏は、


「抽象的な思考図式とは次のようなものです。有機体システムとしての私たちは、免疫システム、神経システム、消化器システム、循環器システムなどの下位システムに支えられています。これら下位システムの間に優劣の関係はなく、相互依存の関係があるだけです。」


と語り、上位システムの安定のためには、「相互依存」の関係が安定的でなければならないと語っているような気がする。これは納得できることだ。マルクス主義の発想よりも、社会学のシステム理論のほうが、現実には有効性を持っているような気がする。

上の文章に続けて宮台氏は次のようにも語っている。


「同様に、近代の社会システムは、資源配分機能を担う経済システム、集合的決定機能を担う政治システム、紛争処理機能を担う法システム、根源的偶発性処理機能を担う宗教システムなどの下位システムが、相互依存する形で成り立っている──こう考えるわけです。
むろんどんな社会システムでも、資源配分機能・集合的決定機能・紛争処理機能・真理探究機能・根源的偶発性処理機能などの遂行は不可欠です。ただ近代社会は、その他の社会と違い、これら機能的課題に従ってシステムを分化させる点が特徴的だと考えるのです。」


ここに至って、近代社会の重要な概念として「分化」のイメージが前面に出てきたように思う。ある特殊な機能を受け持つシステムが優位であるような社会は、それは十分近代化されていないと考えられるのではないかと感じる。旧社会主義国家は、政治的な機能を持つシステムが肥大していたという点で実は十分近代化されていなかったといえるのではないかと思う。これは、現実の日本社会を見るときにも、どうも特殊な機能が肥大しているようなところが見えるので、そこにゆがんだ近代化の姿を見ることが出来るような気がする。コネが優先されていた教育界のシステムは、どうも分化が不十分だったような気がする。

分化が進んだシステムでは、それをすべて支配下におくような強大な国家権力は現れにくい。そしてそれこそが近代国家だといわれる。そのような意味では、日本は近代国家であるのかどうかということはかなり論争的な命題だろう。分化という概念を、近代化と関連させて今の日本の姿を正しく解釈することに役立てたいと思う。
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by ksyuumei | 2008-07-25 20:42 | 宮台真司


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