宮台真司氏が「連載第十回:二重の偶発性とは何か」で説明するのは「二重の偶発性」というものだ。ここで語られている「偶発性」という言葉は辞書的な意味に近い。それは基本的には「必然性」に対立するものとして理解される。宮台氏の言葉で言えば、可能性としては他のものでもあり得たのに、たまたま(偶然)そのようになっているというような現象が起こっているのを「偶発性」と呼んでいる。
現実の我々の世界は「偶発性」に満たされている。必然性を洞察できる科学的真理もあるが、それは特定の対象にのみ適用できるもので、大部分は偶然そうなっているとしかいえないだろう。この偶発性に対して人間は意味の機能を用いてそれを理解しようとする。宮台氏は「偶発性に対処して選び直しを可能にする、否定性をプールする選択形式」を意味の機能として捉えて、我々の世界理解を説明している。現実には否定された他の可能性を選びなおすという機能を通じて我々はいま目の前にある世界を理解しようとする。 我々の思考が論理の展開などというものを経ずに、目の前の現象を単純に受け止めて、それを刺激として反応するだけであれば意味の機能は必要ない。本能的な対応のメカニズムがあれば十分だろう。しかし人間は単に刺激に反応するのではなく、意味を経由して現実に対処する。これが過去の記憶からの学習や、未来の予測からの「予期」を形成するきっかけとなる。意味の概念から選択の持続の理解が生れ、それが過去や未来の概念を生み、人間の世界認識が深く広くなっていく変化をもたらす。 この思考の展開において、他者の経験を自分のものにするというコミュニケーションも生れ、その過程で言語というものも生れてきたのではないかと想像される。この認識の広がりを持った人間が生き残りには有利になったのではないかと思われる。現在の人間が意味や予期といった機能を駆使できるのも、このような生き残りの結果として持続された能力ではないかと思う。 さて宮台氏は、「意味を用いて、いちいちサウンドせずに世界を無根拠に先取りする営みが、予期です」と語っている。意味というのは、ある種の現象が起こった後に、事後的にそれを解釈して受け取るものだ。そしてその際に、「選びなおし」の可能性をプールし、選ばれなかったほかの意味を「否定性」としてプールしておく。予期は、まだ起こっていない未来を予測してその意味を先取りしておこうとするものだ。 対象の必然性を洞察できるのであれば、この未来の先取りは確実に予測どおりになる。予期は期待通りの事実になる。しかし、現実の大部分は「偶発性」を持っているので、予期の大部分も「無根拠な先取り」にならざるを得ない。この「予期」が信頼というものを基礎においていれば、他の可能性は思考の外に置かれ、選びなおしの可能性も忘れ去られてしまわないだろうか。これはかなり危険な勘違いを呼び、失敗をする可能性を高くしないだろうか。 しかし、予期の段階で意味を深く追求していたら、否定の可能性が気になって次の一歩の行動が取れなくなる恐れもある。こんなことをしたら期待通りにならないのではないか、ということが気になると、被害妄想的になり何をしても失敗しそうな感じがする。以前にうつ病の診断を受けたときのことを思い出すと、運転していた時にそのような感じを強く持ったものだ。他の車がすべて自分の邪魔をしているような強迫観念がぬぐえなくて困ったものだ。「信頼」というものがまったく出来なくて、次の運転が他の車の否定的な反応を呼び起こすのではないかという負の「予期」のほうが生れて、運転をすることが苦痛になっていた。 今ではよほどのことがない限り、他のドライバーも安全運転をしているのだということを信頼して運転することが出来る。自分がそうできるのだから、大部分の人もそうできるのだという「信頼」を、根拠はないが抱いている。このようなものがあるので、複雑で「偶発性」に満ちている現実においても、一定の秩序を形成した行動を社会全体が取れるのだなと感じる。この秩序は、いったいどのようなメカニズムで保たれているのだろうか。 これが今回の講義のテーマである「二重の偶発性」の問題であり、その処理をうまく果たすことが秩序の維持につながっていると言えるのではないだろうか。現代社会は、この問題を解決するシステムを持っている。だから秩序の維持ができるのだという論理的な理解になるだろうか。それでは、どのようにしてこの問題を処理しているのだろうか。具体的にはどのような姿が見えてくるだろうか。 パーソンズ流の「価値共有による秩序問題の解決」に対しては、「ホッブスによる秩序問題の解決案と同じく、秩序のありそうもなさを、価値共有のありそうもなさに移転しただけで、解決と呼ぶには値しません」と宮台氏は指摘している。「信頼」という価値観があらかじめ確立していて、それに従っているから「二重の偶発性」が処理できていると考えるのは現実的ではないということだろう。現実には、価値観は多様であり、合意がないものが多い。それでも「信頼」が崩れないのはどうしてなのか。 ルーマンによる解決を語った部分では、「偶発性の消去から、偶発性のやり過ごしへ」という言葉で宮台氏は語っていた。偶発性は消去できないと考えられているようだ。これは、現実の出来事のすべての必然性を悟ることは出来ないとも言い換えることが出来るだろう。だから、偶発性を消去するような努力は結果的には失敗する。偶発性は消去するのではなく、「やり過ごして」それが不安につながらないようなメカニズムを持つことが秩序を維持する処理の仕方になるということになるだろうか。 このあたりの複雑な構造の理解には、宮台氏の次の文章が参考になるだろう。 「パーソンズとルーマンのスタンスの違いを十分理解しましょう。一般に、私の行為と他者の予期(期待)との関係には二つのレベルがあります。第一は、私の行為が他者の予期に合致しているかどうか。第二は、私の行為が他者の予期を踏まえているかどうか。 パーソンズは前者を、ルーマンは後者を重視しますが、両者は似て非なるものです。なぜなら、二つのレベルが論理的にズレる可能性があるからです。すなわち私は、他者の予期を踏まえた上で、あえて他者の予期に反する行動を取ることができるのです。 パーソンズの場合、こうした振舞いは秩序への侵犯を意味しますが、ルーマンの場合は意味しません。この違いを説明するのに最もよい例は「社交術」です。日本人は社交術を、場の期待(周囲の予期)に合致した振舞いができるか否かのレベルで考えがちです。 ところが西欧的な社交術の本質は、私の行為が他者たちの期待に応えるかどうかではなく、私が他者たちの期待に応えうる存在であることを他者たちに示すことで、私が他者たちを受け入れる意思を持つことを示すところにあります。」 秩序維持のためには合意が必要だと考えると、その合意が崩れた時点で秩序が壊れたと判断してしまう。しかし、合意ではなく信頼こそが秩序のために必要だと考えれば、予期に反する行為があった場合も、それはたまたまそうなっただけで信頼は保たれていると受け止める「やり過ごし」が出来る。「他者の予期を踏まえた行為」というのは、そのような信頼を基礎にした考え方になるだろう。 「社交術」というのは、人間関係を築く技術と呼んでもいいものかもしれない。相手が自分をどう思うかという、相手の持つ自分の行動に対する「予期」を、自分がそう思って欲しいものとして提供する(コントロールする)ことが「社交術」になるような気がする。 宮台氏が語るところによれば、日本人というのは、結果として現れた事実が相手の期待通りであるかどうかが気になって、相手の「予期」をコントロールするという面を見ることができないという。だから、自分がまず相手の期待を「予期」して、それにかなうような行動を取ることが人間関係を築く基礎になっていく。これは、限りなく相手に迎合する方向へと向かってしまうだろう。自らの主体性をまったく出せないような「社交術」になってしまう。日本人の社交は、信頼よりも合意を基礎にして考えられているようだ。マナーや儀礼がうるさく言われるのもそのためだろうか。 これに対し、外国人、特に社交の歴史の長い西欧の人間はどのような「社交術」を使うかは、宮台氏は次のような例をあげている。 「F1のモナコ・グランプリの予選前日(木曜日)にモナコ王室が主催するパーティが開かれます。日本国内ではしばしば「タキシードの着用が原則なのに、日本の記者がフィッシュマン・ジャケットを着用したまま参加するのはミットモナイ」と非難されます。 しかし厳密には的外れです。例えばアップル・コンピュータの創業者スティーブ・ジョブズであればTシャツとジーパンで現れるかも知れません。それでもいいのです。なぜなら、皆の期待を熟知した上で「ワザと外す」ことも、社交術の正攻法だからです。 パーティのゲームを弁えた上で「ワザと外し」たことをプレゼンテーションできれば、私は自分がパーティに参加するだけの器量を持った存在であることを示し、パーティの参加者たちを受け入れる(ゲームをする)意思があることを示すことができるのです。」 「皆の期待を熟知した上で「ワザと外す」こと」が、社交の相手の「予期」をコントロールすることになる。それが「ワザと」であることが分かれば、まともにやろうと思えば出来るのだという「予期」を相手に与えることが出来る。「予期」のコントロールこそが「二重の偶発性」の問題を解決する方法になるということが分かる。宮台氏は次のようにまとめている。 「器量があるところを相手に示せれば社交術としては成功で、その上で相手が自分を受け入れるかどうかはもはや相手の問題だというのが、西欧流の誘惑(ナンパ)です。だから相手がなびくかどうかに一喜一憂してビビる必要を免除されるのです。 これらの例に明らかですが、相手の予期を踏まえたとしても、私の行為は本来偶発的です。同じく、私の予期を踏まえたとしても、相手の行為は本来偶発的です。私たちはこれら偶発性に混乱したりしません。私たちの注意が、行為でなく予期に集中するからです。」 「予期」をコントロールするには、自分がどの程度の器量を持った人間かを示すことが出来るかどうかにかかっている。それが出来れば、それを相手がどう受け止めるかという「偶発性」はさほど気にするものではなくなるというわけだ。これは、自分の行動を極めて主体的なものにするだろう。まずは自分の思い通りに振舞って、それが自分の器量を表しているのなら、その器量にふさわしい「予期」を相手に与えるだろうということだ。この信頼が、不安を抱かずに自由に行動できるという秩序へ結びつくのではないだろうか。しかし、これは日本人にとってはかなり難しいことではあると思うが。自分が相手にどう思われているかが気になっている人は、社会学が提出するこのような理論を考えてみると安心できるのではないだろうか。
by ksyuumei
| 2008-07-16 09:57
| 宮台真司
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