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信頼の本質としての「予期」の概念

宮台真司氏が「連載第九回 予期とは何か?」で語る「予期」という概念を考えてみたい。この回の講座では「予期」のほかにも重要な概念がいくつか提出されているのだが、まずは「予期」という最重要な概念について、その明確なイメージをつかむことに努力してみようと思う。

この「予期」はもちろん社会学という学問における専門用語で術語と呼ばれる学術用語になる。したがって、日常的に使用する辞書的な意味を持つ「予期」とは概念が違うだろうと予想できる。いつものように辞書的な意味をはっきりさせて、それをさらに抽象して、システムを考える上での「信頼」をより明確にさせうるような概念として「予期」というものの本質的な意味をつかんでみようと思う。

「予期」を辞書で調べてみると、「前もって期待すること」と書かれている。まさに文字通り「予」という言葉を「予定」「予想」などに使われている「あらかじめ」「前もって」などという意味で解釈し、「期」という言葉を、「期待」という意味で解釈している。辞書的な意味は、「信頼」のときもそうだったが、やはり個人が持っている認識との関連でイメージされているように思う。「前もって期待する」というのは、個人の心の働きとしてそのような現象が想定されているように感じる。これを社会学で取り扱う概念として利用するには、個人ではなく、社会における「予期」として概念化する必要があるのではないかと思う。




「前もって期待する」という言い方では、社会におけるものという感じがしない。それは、個人によって違うものが期待されてしまうような気がするからだ。このように曖昧であやふやなものが社会における「予期」だと考えてしまうと、それを論理の出発点として論理を展開しても、その結論も曖昧であやふやなものになってしまう。社会における「予期」は、個人的にそう思うというものではなく、ある程度客観的に、誰もがそう判断できるというものでなければならないだろう。

そういう客観的なものとしての「予期」が、現に社会に存在する「信頼」と関係してくるのではないだろうか。社会にある種の「信頼」が存在するなら、その「信頼」が「予期」を形成する根拠となると考えられるのではないだろうか。この「予期」は、個人的にそうなって欲しいとかいう思いで期待するものではなく、そこに「信頼」があるので、「信頼」を信じている人間なら誰でもそのように期待するという「予期」になっているのではないだろうか。

宮台氏は、「信頼は、むろん予期の一種です」と語っている。この意味は、「予期」というものが個人的なものも社会的なものも含んでいる概念であるけれど、社会的なものの一つとして「信頼」というものが「予期」として存在するのだという意味なのだと思う。

「予期」というのは、個人の場合は単なる思い込みからの願望としての「予期」もあるだろう。そうなるかどうかは分からないが、ぜひそうなって欲しいという願いとしての「予期」だ。しかし、必然性の洞察が出来る人間は、その必然性から求められる結論に従った、ほとんどそれが起こるだろうことが確実であるような「予期」を持つだろう。板倉さんの「科学」概念でいえば、100%そうなることが期待できる予想を持つということになる。個人の場合の「予期」は、その個人がどの程度の世界の法則の必然性を認識しているかで、「予期」の段階が分化していくような気がする。

社会において、「信頼」がもたらす「予期」というものは、「信頼」が根拠のないものとして捉えられていたので、そこに必然性の洞察があるとは考えられない。それが循環的に繰り返されてきたので、今度もそうだろうという根拠のない予想が立てられているだけだ。この必然性を欠いた「予期」は、まずは二つの層に分けて捉えられる。宮台氏は、


「議論の対象を明示すべく簡単な分類学から始めます。予期には「死なないと思う」という積極的なものと「死ぬことを考えたこともない」という消極的なものがあります。積極的な予期には「だろう」という認知的なものと「べきだ」という規範的なものがあります。
信頼は二つの予期層からなります。最初は「刺すとは思わない(考えたこともない)」という消極的予期があります。未分化な予期層とも言います。社会システム理論ではこの段階を、自明性と呼びます。単純な社会では、自明性だけで信頼の大部分を調達できます。」


と書いている。消極的・積極的という二つの層に分けられた「予期」としての信頼は、選択領域がないことが結果として自由の欠乏感を生まなかったという考察に似ている。「考えたこともない」という対象は、それの存在が認識の中に入ってこないので、それが「あるのではないか」という思いが生れず、不安というものを生まない「予期」になっているのではないかと思う。消極的という言葉は、何か余りよくないというイメージが浮かびそうだが、「予期」に関しては不安を生まないという幸せな状況をもたらすような気がする。ただ、その幸せは「知らぬが仏」ということわざで語られるような幸せで、単純な社会における「自明性」がもたらす幸せだといえる。複雑化した社会に生きる我々は、このような幸せを求めたくても、もはや手に入らない幸せになるだろう。我々の「予期」は、もはや消極的なものにとどまることが出来ず積極的なものにならざるを得ない。ということは、それまでは「考えたこともない」ことを考えざるを得ず、そのことから不安に苦しめられることになる。

この不安を鎮めるための次の段階の「予期」は、認知的・規範的という、これもまた二つの層として考察される。不安というのは、そうあって欲しくないという損害を与えるような「予期」からもたらされる。この「予期」がもたらす不安を静めるには、その損害が避けられるものであるという「予期」を構成して安心感をもたらす方法がある。

損害を避けるために取られる方法の一つが、認知的な方向を持つもので、合理的思考によって避ける方法を考えようというものだ。これはそれを避けるための必然性を洞察することで、避けることの「信頼」を高めることが出来る。その「信頼」が不安を鎮めることになるだろう。

もう一つの規範的な方向というのは、不安をもたらす「予期」に対して、「そうすべきではない」という規範を社会に確立することを目指すものだ。人々がそのようなことをしないという「予期」を持つことによって、そのようなことがあるかもしれないという可能性を低める方向を取る。規範的意志の貫徹というような言葉で宮台氏が語ることもあるこの方向は、法的な意志の貫徹を強く主張するもので、犯罪に対する厳罰化の方向などがこれに入るように思う。


「「だろう」は、違背に際して適応的に学習する構えがある予期です。すなわち当てが外れれば賢くなる方向で学ぶという態度と共にある予期です。「べきだ」は違背を学習せずに、予期に合わせて現実を変える構え──予期貫徹の構え──のある予期です。
違背可能性が意識される当初は、「考えたこともない」との消極的予期から「刺すこともありうるが刺さないだろう」との認知的予期に移行します。違背が現実的になると、更に「だろう」で構えるのか「べきだ」で構えるのか、予め態度先決されるようになります。」


と宮台氏はまとめている。「予期」という概念のこのような機能的側面は、「予期」という概念を運用して思考を展開する際に、演繹的な方向を明快に示してくれているように感じる。概念を機能的に捉えるというのは、「意味」の概念のときにも感じたのだが、概念の運用という思考(論理)の展開においては重要な理解のしかたになるのではないかと思う。上の文に続けて宮台氏は、


「個人から見ていろんなことが起こりうるという意味で複雑な社会──多様で流動的な社会──では、自明性だけでは信頼を調達し切れません。むしろ違背の可能性を意識しながらも、それでも前に進めるように、分化した予期層で信頼を調達する必要が出てきます。
単純な社会の自明性と区別される、複雑な社会における分化した予期層における信頼が、どんな形を取るのか。これを語るにはもう少し準備が要ります。いずれにせよ個人から見て複雑な、複合性の高い社会での信頼を考えるには、予期とは何かを知る必要があります。」


とも書いている。現在の複雑な社会を分析するには、「予期」という概念が必要不可欠であり、その概念運用には、機能的な理解が重要だと語っているように僕には感じる。

宮台氏は、この後に「世界」「社会」「現にある社会」というものについて説明を展開している。この3つの対象に対しては、それを辞書的に解釈するのではなく、新たな概念として理解する必要を感じる。

宮台氏は、「ありとあらゆるもの全体」を「世界」、「ありうるコミュニケーションの総体」を「社会」、「現にある秩序(ありそうもない状態)をなすコミュニケーションの総体」を「現にある社会」と呼んでいる。

「世界」や「社会」においては、考えられうる「すべて」の対象が含まれているので、そこには「予期」が存在しない。すべての起こりうることを「予期」するというのは、何も「予期」していないことと同じになるからだ。「予期」が問題になるのは、「現にある社会」であって、そこに構成されている「信頼」が人々に「予期」をもたらす。

「現にある社会」は、現実にそこにある具体的な社会を指すが、「世界」や「社会」は抽象的な概念で、現実のものではない。それは「すべて」に言及しているからだ。もし「世界」についても、現に我々が目にしている限定された、我々の周りの「世界」を考えると、「社会」に対する「現にある社会」と同じような構造が見えてくる。宮台氏はそれを「偶発性」という言葉で語っている。あらゆる可能性を含んだ「社会」が「現にある社会」として実現されているのは、たまたまそうなっているからであって、必然性がないという意味で「偶発的」だ。同じように、ありとあらゆるものを含む「世界」に対して、現に我々の周りにある「世界」は「すべて」を含んでいないので、現にある「世界」はその存在は「偶発的」だ。「偶発性」という概念も、このように考えると重要なものであることが分かる。

この回の講義では、この他に「前提を欠いた偶発性を、無害化して受け入れさせる機能的装置」としての「宗教」の概念についても言及されている。この概念も辞書的な、実体的な意味としての宗教とは違い、あくまでも機能的な、概念運用に便利なように考えられた概念のように感じる。また「体験地平の拡大」という機能をもたらす「他者」という概念もこの回で語られている。この「他者」の概念は、三浦つとむさんの「観念的な自己分裂」の問題や、ウィトゲンシュタインの「他者」の概念にも通じるようなものでたいへん興味深い。これらは、「予期」とは独立させてもっと深く考えてみたい概念だ。
by ksyuumei | 2008-07-15 09:45 | 宮台真司


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